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【短編小説】踏切

あらすじ


私が、仕事を定時で終えて帰ると、いつも捕まる踏切がある。
そんな時、きまってあの青年が、踏切を渡らずに立っている。
あの青年は何故、踏切を渡らないのだろうか。
3,250字



踏切

 その日、彼はいつも通りその踏切に捕まっていました。

 私が定時で仕事を終えて帰ると、必ず捕まる踏切です。

 彼は、私よりもひとまわりは若いでしょうか、まだ二十そこそこ。スーツ姿がどこかぎこちない様子で、背は百七十の後半、色白で、顔立ちは整っている。きっと同年代の女性にモテるでしょう。

 私が彼くらいの歳の頃には、定時で仕事を終えるなんて考えられませんでしたが、彼らにはそれが当たり前なのでしょう。私が定時で帰る日で、彼を見かけない日はない。つまり、すくなくとも週に三日は定時で仕事を終えていることになります。

 この踏切で彼を見かけるようになってから、もう半年になります。

 一度も言葉を交わしたことはありませんが、私は彼が嫌いです。

 彼はどう見ても好青年に見える。しかし、中身が腐っているのです。

 私は、彼と十分に距離をとって足を止めました。

 彼の背中を週に三回、半年間も眺めてきました。こんなにも変化しない人間がいるのでしょうか。彼の持ち物、スーツのしわ、どこにも変化が見られないのです。それに気づいたのは先月でした。気のせいだろうと思いましたが、気づいて以降の一か月も、まったく変化が見られないのです。

 この頃は、彼の背中を眺めながら踏切の警報音を聞いていると、私の気がふれてしまったのではないだろうか、という考えが頭の中をグルグルまわります。

 遠くから電車の音が聞こえてくると、踏切の向こう、赤いポストの陰から年老いた女性が現れました。彼女は足が不自由で、右のつま先を引きずりながら歩くので、右の靴の先が減って尖っているのがいやに目立ちます。

不気味なことに、この光景も半年間ずっと続いているのです。

 この青年もあのおばあさんも、半年間ずっと、同じ時間に、同じ格好で現れるのです。

 雨の日でも、同じように、二人はこの踏切に立っている。

 青年の腐った心が、青年の横顔を歪める。彼は、おばあさんが足を引きずりながら歩く様子を見て、クックと笑うのです。半年間、飽きずにずっと笑っている。

 やがて電車が通り過ぎて、遮断桿が上がる。

 彼も、踏切のむこうのおばあさんも、なぜか歩き出さない。

 半年間、この踏切を渡るのは私だけなのです。

 私が彼の横を通り過ぎる時、彼は必ず、ボソッと呟く。

 「わたるなよババア」

 私は、その時の彼の顔を見たことは一度もありません。恐ろしくて、見ることができないのです。

 緊張の中、私が踏切を渡り終えると、おばあさんはくるりと踏切に背を向けて、ポストの後ろに回って、細い路地に消えていきます。

 こんな光景を半年もずっと見ているのです。

 今日、ついに私は自分の気が確かなのか心配になって、同僚で試すことにしました。

ちょうど定時で仕事を終えた同僚がいたので、私の家で飲まないかと誘ったのです。

 私の妻は、同僚たちの間では美人だと評判なので、この手の誘いを断られたことはありません。私の誘いは快諾されました。

 この同僚が田沼と言って、面白い男なのですが、間違ったことが嫌いなたちで、私はそのことを知ってはいましたが、なに、問題にはならないだろうと思って、なんの疑いもなく田沼を踏切に連れて行ったのです。

 これが大きな間違いで、その日も青年は顔を歪ませて「わたるなよババア」と言いました。すると、田沼がすかさず青年のネクタイを掴んで、ひねりあげたのです。

 私が止めに入ろうとした瞬間、田沼は弾かれたように青年から手を離しました。

 青年は、頭から血を流していたのです。

 私も田沼も、驚いてしまって言葉が出ない。

 青年の頭から流れたドロリとした赤黒い血は、呆けたように口を開ける青年の口に入っていく。

 田沼が、金切り声を上げながら、踏切とは反対方向、会社に向かって走り去ると、青年はくるりと私に背中を向けて、田沼の行った方へ歩いていきました。

 急に後ろが気になって振り返ると、踏切の向こうに、おばあさんが立っていました。こちらをじっと見ている。

 私はなんだか腹が立って、事をハッキリさせてやろうと思い、おばあさんに駆け寄りました。

 私が踏切をわたる間、おばあさんは焦点の合わない目で、私をずっと見ていました。

 十分に近づいてから、

 「あの男はなんですか?」と聞きました。

 おばあさんは怯えたような声で、

 「あれは、私の孫です。半年前に、この踏切で死にました。」

 と言いました。

 振り返ると、踏切の向こうに、あの青年が立っていました。

 私はたまらなくなって、青年に歩み寄ろうとしましたが、おばあさんが急に私の袖を掴んで引きとめます。

 その手に込められた力が強く、怖かったので、私は青年から目を背けて、おばあさんに向き直り言いました。

 「おばあさん、もうここに来ちゃいけないよ」

 おばさんはゆっくりと首を横に振ると、

 「あの子は、やっぱりいるんだね。見えるんだね。一人にしてごめんね」

 と、繰り返し言って、私のことはもう居ないものとしているようでした。

 私は怖くなって、そこから走り去ってしまいました。

 家に帰ると、妻がエプロン姿で料理をしていましたから、火を止めさせて、思いっきり抱きしめて、私は子どものように泣きわめきました。

 妻は、私に仕事で嫌なことがあったのだろうと一人納得して、詳しく聞いてくることもなかったので、私はホッとしました。この話を妻に聞かせたら、なんだか妻をとんでもなく恐ろしいことに巻き込んでしまうのではないだろうかと思ったのです。

 私は泣きつかれたまま眠ってしまいました。

 目を覚ますと、リビングのソファの上でした。

 真っ暗な部屋の真ん中で、一人でいることが怖くなって、寝室へ行くと、妻と子が幸せそうに寝ていました。私はなんだかようやく、日常に戻ってこられた気がしました。

 思えば半年間、ずっと青年とおばあさんのことで頭をいっぱいにしていた気がします。

 憑かれるというのは、きっとこういうことなのでしょう。

 気分がよくなったので、冷蔵庫から缶ビールを出して、夜中に私が目覚めるだろうと予想した妻が、取って置いてくれていた晩ご飯と一緒に楽しんでいると、家の電話が鳴りました。

 私はぎょっとして、壁掛け時計を見ました。もう夜中の一時です。

 私は、田沼からだ。と、直感しました。

 出ると、やはり田沼からでした。

 私が無言でいると、彼も無言でいるのです。

 無言でしたが、不思議と、田沼に違いないと確信がありました。

 暗く重い沈黙の帳に、赤い光が見えた気がしました。

 ――田沼が踏切にいる。

 かすかに、踏切の警報音が聞こえるのです。

 私がそれに気づくと、田沼にも伝わるようで、彼が息をすっと吸って、

 「お前は、わたるなよ」

 と、言ったのです。

 それで、電話は切れました。

 私は、驚きませんでした。

 どこかで、こうなる気がしていたのです。

 とにかく、私は晩ご飯の続きをしようと、リビングに戻って、ビールを喉に流しました。喉がとても渇いていることと、まったく酔えないことに気づきました。

 耳にこびりついて離れない警報音が、少しづつ大きくなって、壁掛け時計の音がだんだんと聞こえなくなってくる。

 どうなるかわかっていてもどうしようもない。私は諦めて目をつぶりました。

 踏切のむこうに、青年と、おばあさんと、田沼が立っている。

 私が踏切を渡ろうとすると、急に揺すり起こされました。

 妻が、私の肩を抱いています。妻は、なにかを感じ取ったのでしょう、泣きながら私を抱きしめているのですが、自分でも涙の理由が分からないようでした。

 私が妻を抱きしめてやって、頭を撫でてやると、妻は私の目を覗き込み言いました。

 「なんでも言ってね」

 私は、妻がなんだか遠いところへ行ってしまう気がして、何か言わなければいけないと思うのですが、何を言えばいいのかわかりません。

 それどころか、次第に焦点が合わなくなって、妻の輪郭がぼやけてくるのです。

 踏切の警報機の音が、耳に聞こえる音のすべてになると、ようやく、彼女に言うべき言葉に思い至ったのです。

 「君は、わたっちゃいけないよ」


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