第167回芥川賞予想&全候補作感想
はじめに
年に2回に開催される、芥川賞・直木賞の発表は、小説・文学好きにとってはわくわくする大きなお祭りです。
といっても、私は数年前までは、候補作発表の段階では気にも留めてなくて、受賞が発表されてから「ほ~こんな感じの作品が受賞したのか~読んでみようかな」と受賞作に手を伸ばすこともある、といった楽しみ方をしておりました。
1年ほど前からでしょうか。文学Youtuberが芥川賞・直木賞候補作予想で盛り上がりを見せており、なるほど候補作を事前に読んで受賞を予想してみるという楽しみ方もあるのだな、ということに気づき、事前に候補作数作品を読んで、たまたま気に入った作品が受賞したら喜ぶ、みたいな楽しみ方に目覚めました。
近年は、芥川賞候補作品が、発表までの間に単行本で発売されることも多くなりました。とにかく早く読みたい場合は、候補作発表の前段階から図書館で文芸誌を予約するなどして入手することができます。骨太の直木賞候補作品にはまだ手を出せていませんが、芥川賞候補作品(2022年上半期・第167回)5作品を発表前にすべて読むことができました。
そこで今回は、候補作5作品すべての感想と、超個人的な受賞予想をしてみました。予想というか、もはや自分が気に入った作品を挙げているだけな気がしますが、読んでいただけたら幸いです。
なお、核心的なネタバレはしていないつもりですが、ある程度内容には触れているので、その点ご了承ください。ただ、少々内容を知ったからといって、面白さが減るような作品たちではないと思っています。
(感想はバラバラのタイミングで書いたので、様式が違ったり文体が揺れていたりして読みにくいですが、申し訳ありません。)
① 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』
最初に読んだ作品ですが、いきなりがっっっつり心に刺さった!食べること、働くこと、生きることへの姿勢みたいなものの意味を問われている気がした。
とある職場で繰り広げられる人間模様を描いた作品ですが、その中心には「美味しい食べ物」がある。でも、この「美味しい食べ物」が曲者で、登場人物を苦しめることになる、というところがこの物語の特色。
食べることって、人間の生命維持活動には不可欠なことだけど、それだけではなく、なるべく健康的でバランスの良い食事を摂るべき、とか、家族や職場の人と交流しながら食卓を囲むことが大事、とか、結構重い意味合いを課されているものだと思う。確かに、一人わびしく(という表現がもはや偏見だけど)コンビニ飯やカップ麺を食べてばかりの生活は、体に悪いというだけじゃなくて、人生そのものが荒んでいるような印象を受ける。
しかし、主人公(のひとり)である会社員の男性・二谷は、食べることへの意欲がそもそも薄く、コンビニ飯を一人で食べることに何ら不満を抱いていないし、むしろ健康的で手間もかかる食事や会食を強制されることを嫌悪し、その強制はもはや「暴力」だと感じている。
これね、めちゃくちゃ分かる。「こういうことを表現する小説が現れたかーー!」と叫びたくなった。いや、私自身は食べること大好きなんです。別にグルメではないけど、美味しいものを食べることをご褒美に考えているタイプです。ただ、美味しいものを食べるの大好き、って感情と同じくらい、食べることって面倒で大変過ぎる!という気持ちもあわせ持っている。なにせ、毎日3食(じゃないことも往々にしてあるけど)、かなりの回数のご飯を毎日食べるわけで、平日仕事終わりに料理したり、休日に何食べよう何作ろうって考えたり、さらにそこに健康的な食事を、なんて観点を加えてしまうとそれはそれは大変なわけです。そもそも忙しい現代人の生活スタイルと、健康的な食生活やら家族との団らんやらが合わないんだろうけど、そういうのが大事っていう価値観はむしろ強まっている気さえする。それを強制されると発狂したくもなるよね。
ただ、この二谷は、ややこしいことに、料理上手で家庭的でかわいらしくてちょっと体の弱そうな、芦川さんという女性と付き合っている。まさに二谷が拒否している価値観を体現するような彼女と。芦川さんはかいがいしく手間の込んだ料理を作ってくれるわけですが、まったく喜んでないし、むしろ嫌悪している。じゃあなんで付き合うねんと思うけど、そこが二谷のだらしなさというか、まあ芦川さんかわいいし、都合よく利用しているというか、拒否するのも面倒だとか思っている節がある。
二谷と芦川さんは同じ職場の同僚ですが、もうひとり、押尾さんという同僚の女性が登場する。ちなみに、この物語は二谷と押尾さんの視点で交互に書かれていて、芦川さんはそれぞれの目線から描かれているだけなので、芦川さんが実際に何を考えているかは最後までよくわからなかったりもする。そこも面白いというか、不穏さを醸し出す要素のひとつになっている。
芦川さんは、体が弱めで仕事はそんなにできなくて、でも可愛いし職場の人からは大事にされてる一方、押尾さんはさばさばしていて仕事もできて、我慢強いタイプ。二谷と押尾さんは結構考え方や能力が近いし話も合うし、芦川さんを嫌っているという点でも一致している。一緒に芦川さんに意地悪してやろうみたいな、奇妙な同盟関係が生まれている。
芦川さんは仕事が忙しくても残業を免除されたり、頭痛で早退したりするわけだけど、そのお詫びにといって、職場に手作りのお菓子を持ってきて、みんなに配るわけです。それがどんどん本格的になってきて、二谷と押尾さんはそれをうっとおしく思っていて・・・事件が発生するんですよね。
この物語は、食べること、生きることへの姿勢みたいなのを問うてくる側面があると同時に、もう一つのテーマとして「弱い人間が勝つ」というのを描いているんですよね。仕事のできない芦川さんがその可愛らしさや愛想のよさを武器に得をして、その分、能力の高い二谷や押尾さんが彼女のできない仕事を負担し、我慢することで成立する。いろんな場面で、結局は芦川さんが勝つような形で描かれている。
ただ、「弱い人間が勝つ」というのは、文中に出てくる表現だけど、芦川さんが弱い人間なのかどうかは甚だ疑問。現実には、仕事ができなかったり早退したりするようでは、疎まれて蔑まれるだけ、というケースの方が多いような気がする。芦川さんが職場の人たちに大事にされているのは、可愛いこともそうだけど、「この人を大事にしなければいけない」と思わせるものがにじみ出ているからであって、そこが天然なのかどうなのかはよくわからないにしろ、もはや弱い人間とは言えないと思う。相当メンタル強いんだろうな、ということをうかがわせる描写もちらほら登場するし、底知れない天性の(あるいはある程度自覚してなのか)「大事にされスキル」が強すぎる。
いずれにせよ、この作品では何を考えているのかわからない、可愛くて家庭的でその結果超強い芦川さん、仕事はできるけど生活への意欲が薄く、嫌悪している芦川さんとなぜか付き合っている二谷、仕事ができて我慢づよく、その結果損な役回りになっている押尾さん、この3人が織りなす世界観がめちゃくちゃ面白い作品になっている。
「健康的で温かい食卓を囲むことが正義」という価値観を嫌悪する、というテーマが個人的にめちゃくちゃ刺さり、マーカーを引きたいような表現が多く、秀逸な文章と物語の運びに引き込まれてぐんぐん読める作品で、大傑作だと感じた。
② 山下紘加『あくてえ』
祖母、母、娘、の女性3世代が織りなす、それはそれはめまぐるしいまでのパワーで描かれる、家族の地獄を描いた作品。地獄すぎない??家族ってこんなにしんどいの??希望はないんかいと、読後はどっと疲れるし、最初から最後までしんどくて辛くなる作品でした。
主人公である娘のゆめの視点で、ゆめと、母と、祖母=ばばあの3人暮らしの様子が描かれる。この、「ばばあ」がそれそれはわがままで憎たらしくて文句しか言わない超厄介な存在。タイトルである「あくてえ」とは「悪態」のことで、これはばばあがゆめに対して、お前はあくてえばかりついてかわいくない孫だよいう文脈で登場するわけだけど、現実にはばばあの方がはるかにあくてえばかりついている。母はばばあのことを献身的に介護するわけだけど、ばばあは一ミリも感謝しないどころか、口を開けばそのほぼ全てがあくてえで、そのあくてえのパワーが凄まじくて、読んでいるだけの身でも恐ろしく疲弊する。ゆめは、そのばばあに終始いらいらし、憤怒し、母を守ろうと躍起になり、いわばあくてえに対するカウンターとしてあくてえをついている。物語を通してふたりの「あくてえ合戦」が終始繰り広げられるわけで、それはそれはしんどい。
家族の地獄って、本当に出口がなくて、外からは見えづらくて、しんどいと声に出しても、言葉にしてみれば何だかありふれているものとして片づけられがちで、逃げる場所なんてなくて本当につらい。ばばあは、たぶんもともと頑固で厄介な人間だったとは思うけど、年老いて、体の機能が衰えるのとは反比例するように、その精神の醜さが凝り固まってひどくなっている部分があるように思われて、そこもつらく感じた。人生100年時代なんて言うけど、不健康で不自由な体を引きずってお金もなくて誰かの厄介になるしか生きる方法がないんだったら、そんなもん勘弁してくれと思う。
ゆめのばばあに対する怒りと憎しみといらいらと、かといっておざなりにはできない複雑な心情と、献身的な母を守ろうとする気持ちと、全く助けてくれない父に対する苛立ちと、ばばあとの生活での疲弊から何もかも立ち行かない、小説家になる夢も彼氏との関係も全然うまくいっていない、と、これでもかと辛い物語が展開される。
しかしながら、唯一の救いともいえるのは、ひたすら献身的で何もかも我慢してしまう母とは対照的に、ゆめは、ため込んだ怒りやイライラをあくてえとしてばばあに打ち返し、強いパワーでもって表現しているところ。可哀想な人物として一方的に苦難を甘受することなく、抑えきれない怒りを発散するパワーがある。もちろん全然うまくいっていないのだけれど、そのおかげで重苦しさや暗さというよりも、強烈な生きる力、生きていくしかない力に圧倒される作品になっている気がする。最初から最後までこれだけ強烈なパワーで走り切り、ゆめの葛藤をありとあらゆる角度のつらさで表現する文章に感嘆するが、本当にしんどいので胆力を要する作品。
③ 年森瑛『N/A』
主人公は女子高生のまどか。女子高で、王子様のような扱いを受けている、一般的な言葉でいえば「ボーイッシュ」な女子である。体重が軽く、生理が止まっている。また、うみちゃんという女性と付き合っている。
まどかの特徴を見ればわかる通り、どこか女子とか女性という属性からははみ出していることが分かる。ただ、まどか本人は、男性になりたいとか、あるいは自分は女性だが恋愛対象が女性だとか、そのようなはっきりした意識を持ち合わせているわけではない。自分が収められている属性に違和感を持ち、勝手にレッテルを張られること、そしてそこから逃げ出してはいけないような空気感に拒否感を示していて、そこが本書の大きなテーマである。
今回の芥川賞候補作の中では一番現代的なテーマともいえる。個人的には、朝井リョウさんの『正欲』と少し重なる部分も感じた。現代では「皆で手をつないで多様性を尊重しよう」という空気感が醸成されていて、ただそこでいう多様性っていうのはあくまでマジョリティが理解できる範囲のものでしかなくて、結局は相手を勝手に属性の枠に入れて判断している。例えば、あなたは同性愛者なんですよね、何も臆することはないんですよ、私は理解があります、という風に。
まどかは、まどかをただまどかとして愛してくれる、「かけがえのない他人」を求めている。そこには、性別という枠組みはなく、性愛や恋愛感情とも関係ない。だけど実際には、うみちゃんというパートナーも、そして周囲の人たちも、まどか自身の思いとはとんでもなくかけ離れた解釈でまどかの属性を判断し、勝手にその枠の中に落とし込んだうえで、愛や理解を示そうとする。まどかにとっては、それは不快でならないんだけど、その枠組みからは逃げ出してはいけないような、自分が逃げ出すことで調和を乱すことがやってはいけないことのように感じられる。その苦しさや葛藤が、まどかの等身大の心情とエピソードで語られている。
私自身、なんで性別なんていう厄介な枠組みがあるんだろうって思うし、女性だからこうだろうという勝手な雑すぎる判断を下されるのは嫌で仕方がないから、自分をただ自分自身として見てほしいとうまどかの気持ちは痛いほどよくわかる。
一方で、これは『正欲』を読んだ時にも感じたことだけど、多様性を尊重しようという現代の流れそのものは、マジョリティの都合の良い解釈がてんこもりだとしても、そもそもマイノリティの存在や人権が完全に蹂躙されていたこれまでと比較すれば、やはり時代の進歩の一つではあると思う。これからどんな形に変わっていくのかは恐ろしくもあるところだけど、過渡期であることは確かだと思う。むしろ今でも、表面的な理解さえ示さないどころか、真っ向からマイノリティの人権を否定するような人だってまだまだいる。
属性がマイノリティかどうか、という問題だけでなく、相手がどう感じて何を考えているか、ということは、究極にはなかなか分からないもので、そこに一定のバイアスや勝手な判断が入り込んでしまうのは、無意識に皆がやっていることでもある。
うまく説明できないが、そういった点において、本作にどことなく表面的なものを感じてしまったというか、「勝手に属性に当てはめて考えるとはこういうことですよ。それが不快なんですよ。」という描写があからさまな気がして、伝えたいことを伝えやすくするためにエピソードを作ってしまっている感じがした。まどかの視点で描かれているわけだから、まどか側の考えや不満しか出てこないのは当たり前なんだけど、一面的な感じもして、もやもやが残った。
でもでも!相手の気持ちを無視して、私は理解してますよ、尊重してますよ、という態度を示して気持ちよくなるのは罪深いし、判断される側からしたら不快でしかない。本作でいえば、うみちゃんの行動は完全にまどかの気持ちを無視して自己陶酔に陥っていた一方で、友人の翼沙は、不器用ながらもまどかのことを思いやって言葉を必死に選んでいた感じがあって、結果として方向がずれてはいたんだけど、きちんと理解しようという姿勢があったように感じた。
全体としてとても読みやすかったし、メッセージ性を拒否するまどかの等身大の葛藤がひしひしと伝わってきたし、すごく興味のあるテーマなんだけれど、わがままを承知でいえばこのテーマならもっと深堀りすることもできたのではと感じてしまった。いや、あくまでまどかという一人の人間の葛藤を描いているからいいのかな・・・。
④ 鈴木涼美『ギフテッド』
夜の繁華街で生きる娘が、ゆっくり死に向かっていく病気の母を見送るまでの物語。母もかつて夜の街で生きていたけれど、身体を安売りすることを拒み、小さなプライドを守って詩人として細々と生きる道を選んだ。死に瀕してもなお、娘を頼り、詩を書こうとする。娘のほうは、母を拒否することはなく、甲斐甲斐しくというほどではないものの、最期の時を予期しながら面倒を見ている。ただ、母と娘、双方向において、まっすぐな愛情ではなく、どことなくぎこちない複雑な心情が垣間見える。
この母娘の重要なエピソードとして、娘が中学生の頃に、母が娘の腕をたばことライターで焼き、火傷を負わせるという過去があったことが描かれる。それ以外の点で特段虐待があったとかではないので、なぜ母は娘の腕を焼いたのか、理由は明かされてはいないが、母娘の重大な確執の一つになっていることは間違いない。
夜の街で生きる娘と母、という言葉から想起されるような、激しい愛憎だったり、アウトローな生活だったりは、この物語にはほとんど登場しない。むしろ全体として、静かで寂しげな雰囲気で、淡々としている。主人公である娘の心情も、くっきり分かりやすい言葉で表現されているわけではなく、おそらく娘自身も、母のことをどう想えばいいのか、母の死を目前にして、心が揺らいでいるように感じられた。
また、娘は、病状が進行する母の面倒を見るのと同時並行で、自殺した友人の足跡をたどり、関係者を訪ねて行ったりする。安易な捉え方かもしれないが、死に瀕した母の面倒を見る中で、死とはなんなのか、この世界でどのように生きていくのかということを、模索しているように感じられる。
先程、淡々とした静かな世界観だと言及したけれど、この、ぼんやり靄がかかったような、その空気感の中で死にゆく母を見送る娘の複雑な心情が、直接的でまっすぐな言葉はなくとも、じっくりと伝わってくる感じがあって、それがものすごく胸を打ち、心に染みわたる作品だった。今回の芥川候補作の中で、読んでいて涙が出そうになったのは、この作品だけだった。直接的に説明されていないのに、浮かび上がってくる特別な感情を表現できる作品って素晴らしいなと思う。最後に登場する母の詩もぐっとくるんだなあ。
タイトルの『ギフテッド』とは、一般的には、生まれながらにしてたぐいまれなる才能や知性を有している(=神様から与えられる)ことを指すと思うけれど、この作品ではどういう意味を持つのだろうか。ここは本当にいろんな解釈があると思う。与えられた、という意味でいえばもちろん、母に与えられた火傷がそれにあたるわけだけれど、これによって娘は、夜の街で生きるにおいてはとりわけ重要な女性としての身体的価値を損なわれている。それは普通に考えれば忌むべき傷跡でしかないわけだけれども、女性として体を売ることを拒否した母が込めた、歪んだメッセージの一つとも捉えられる。娘はその傷跡を、母から与えられたメッセージを、もっと言えば母から出産という形で与えられた(=ギフテッド)人生そのものを、抱えながら生きていくしかないということを、個人的には表現しているように感じられた。
あらすじを聞いて想像していたストーリーとはいい意味でかなり違っていて、醸し出す世界観も文章表現も、すごく大好きで、傑作だと思った。
➄小砂川チト『家庭用安心坑夫』
主人公は専業主婦の小波。秋田から上京してきて、夫と二人暮らし。ある時、東京の街で、いるはずのない父のツトムをたびたび目撃する。この、ツトムというのは、実際の父親ではなく、小波の故郷の秋田にある、鉱山の跡地にできたテーマパークにある、坑夫を模したマネキン人形である。彼女は、ツトムに会いに秋田へ戻り、ある行動に出る・・・。
あらすじだけ見てもどんな話かよく分からないが、実際に読んでみても、やはりかなり奇天烈な世界観の物語である。小波がどんな過去を抱えていているのか詳細は不明だが、メンタル的にかなりの問題を抱えているようで、幻覚を見ているため、この物語は現実と虚構の境界線を行ったり来たりしながら展開される。
坑夫のマネキン人形を父と思っている、ということも、それがたびたび東京に出現することも、そして極めつけに小波が秋田に戻って取る行動も、どれもぶっ飛んでいて、何も理解はできないのだけれども、小波の行動原理が奇妙に真に迫るもので、何故かこの奇妙すぎる世界観を成立させてしまう文章力があり、圧倒される。全く分からないんだけど読んでいて面白いし引き込まれるし、なかなか稀有な存在の作品だと感じた。
小波が父だと思っている坑夫のツトムの過去、そして鉱山で働く坑夫たちの生活が描かれているんだけど、これがすごくリアルで、それだけでも読みごたえがあるようなクオリティだった。全体を通して、文章力が非常に高くて新人離れした作品だと感じる。いや、新人とかそういうことを横においても、よくこんな作品作れるよなあ!と感嘆してしまう。
しかしながら、やはり世界観が奇天烈すぎたし、何を言わんとしているのかは受け取ることができず、最終的にこれはいったい何だったんだろう・・・と置いてけぼりにされた感が強い。この物語から何かのメッセージを感じ取るとか、何かの点で感銘を受けるとか、そういった類の作品ではないように思った。
超個人的な芥川賞予想
以上、芥川賞候補作5作品の感想でした。
全体を通して、新しい文学性を感じるような、似た作品が見当たらないような強い個性を持ち合わせた作品が多かったように感じました。
この中で、どの作品が芥川賞を受賞するのでしょうか。
私は選考委員の評価基準や受賞の傾向を分析しているわけではないので、個人的に好きだった、推したい作品を挙げさせていただきます。
というわけで、私の超個人的な受賞予想は・・・
高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』
または
鈴木涼美『ギフテッド』
です!!
「または」ってなんやねんという感じですが、推し作品が同時受賞はさすがに出来過ぎだろうということで、どちらか一つでも受賞したら嬉しいなという願いを込めて、「または」をつけました。
『おいしいごはんが食べられますように』の方は、私自身にのしかかるテーマと一致するもので、あまりにドンピシャでした。食べ物が大好きで、でも同じくらい食べ物に苦しめられてもいる。人間が毎日生命維持のために摂取している食べ物というものに付与される、尊くて重い価値観が内包する「暴力性」をここまで全面に押し出して表現する作品を、少なくとも私は初めて読みました。文章もストーリーもすごく面白いんですよ!
また、高瀬さんといえば、『水たまりで息をする』という作品で前回の芥川賞にノミネートしています。こちらは未読なのですが、「ある日夫がお風呂に入らなくなった」といあらすじからもう惹かれますよね。生活において不可欠な、それでいてやっかいなものの存在をじっとり表現するのが得意な作家さんなのかなと勝手に想像しています。
『ギフテッド』の方は、他の作品と比べれば、目新しさや斬新なテーマ性は薄いのかもしれませんが、「なんとなく良かった」の枠に収まらない、めちゃくちゃ心の染みる作品でした。夜の街に生きる主人公も、母と娘の関係性というテーマも、文学にはよく登場するのかもしれませんが、アウトローで過激な表現に頼らず、淡々とした表現の中に、じんわりと複雑な感情を浮かび上がらせる作品というのはやはり稀有なのではないでしょうか。作中にたびたび登場する、鍵だったり、扉だったり、何かを象徴する暗喩が随所にちりばめられていて、また『ギフテッド』というタイトルそのものも、どういう意味なんだろう、という解釈を考えて楽しめるところも好みでした。
文学好きな皆さんの芥川賞予想をSNS等でざっくり拝見した感じ、『N/A』『あくてえ』あたりの人気が高いように見受けられました。とはいえ、どの作品も良いと言っている方も多いし、どの作品が受賞してもおかしくない、傑作ぞろいだと思います。
芥川賞候補作5作品すべてを読むのはとても濃厚な読書時間でしたし、それぞれの作品の感想を言語化することは、骨が折れる作業でもありつつ良い時間を過ごせました。
明日2022年7月20日の発表を、楽しみに待ちたいと思います。
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