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恋愛と生活感の両立

昔愛していたおじさまと家が偶然近所だったことがあった。
全く別の所で出会ったのだが、歩いて10分掛からない所に住んでいることが判明したのだ。
以前そのおじさまとの思い出を小説仕立てにして書いた時は『坂を一つ越えた所』と書いたが、実際には坂を登ったらもうそこにあるぐらいの位置だった。
しかも、以前から通りがかるたびに素敵だなと思っていたマンションだったので更に驚いた。


同じ区に住んでいるだけでも奇跡かと思ったのに、そんな近くの、よく知っている所に住んでいたなんて。
おじさまも「じゃあいつでも会えるじゃない」と喜んでくれた。
私も、もしかしたら部屋に遊びに来てくれたりするのかしら?と思ってドキドキした。


しかし、そんなことはなかった。
『いつでも会える』というのは、忙しいおじさまが『会おうと思えばすぐに会える』ぐらいの意味であった。
会うのは部屋ではなく、近くの超素敵なホテルだった。
それはもちろん私を喜ばせようと思ってくれているのもあったろうが、おじさまははっきりと意識して女の部屋には行かないと決めている人だということが後でわかった。
『恋愛に日常はいらない』という考えだったのだ。
自分が女の部屋に行くなどというのは日常の真似事、もっと言えばままごとのように感じてしまうのだという。


それが悪いという話では全然ない。
おじさまは自分の頭の中ひとつで世の中に身を立てているような人だったし、頭の中を現実的なものに侵されたくないという考えはよくわかる。
日常を離れた所に身を置くことで生まれるものもあるのだ。
おかげで私も映画の中にいるみたいな気分にさせてもらっていた。





思い起こせば‥‥。
別のおじさまからも
「ああ、私に求められているのは非日常なのだな」
と感じることが多かった。
そして私はその役割を喜んで引き受けがちだった。
「生活感が無いね」
などと言われるのが褒め言葉だと思い込んでいた節もある。
常にきれいな格好をして素敵に振る舞って、おじさまの望むようなことをしてあげたい、と思ってきた。
おじさまの生活のロマンティック部分を担当したい!みたいな。


うんと若い頃は更にその傾向が強かった。
男の友達に「花野はもっと隙を作った方がいい」と言われたことがあった。
「え、たとえばどんな風に?」
「髪とかきれいに巻き過ぎるより、多少ボサボサなぐらいがいいんだって」
「え〜〜〜?」
「マニキュアも毎日服に合わせて塗り変えるとか命かけてるけどさ、塗ってない方が無防備な感じが出ていいから」
「そうかな〜〜?」
「腹が出るからっておじさまとデートする3日前から飯抜く、とか気合い入れ過ぎなんだよ」
「なんなら私、当日もセックスの後に食事っていう順番がいいぐらいなんだけど‥‥」
「誰もセックスの時に腹とか見てないから安心しろ」


当時は彼に言われたことは1ミリも採用しなかったが、最近は何となくわかる気がしてきた。
たしかに私がロマンティックを追い求めてカッコつけ過ぎていると、おじさまも気を抜きにくいのかもしれない。
たまにボヤーっとした格好をしてみたらいつもよりくだけた雰囲気のデートになって、ああおじさまも逆に私に合わせてくれている所があったのだなと気付いたりして。
意外に生活感出しても受け入れてもらえるものなのだな、と思う。
生活感を許容してくれそうなおじさまと一緒にいるとやっぱり気が安まるし、思い返してみると、長続きするのってやっぱりそういうおじさまなのだ。


恋愛と生活感ってちゃんと両立するのだ。

















↓ 思えば『日常はいらない』のおじさまといる時でも、ちゃんとスイッチ切り替えられたしな。


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