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除夜の鐘とともに消えた男

 除夜の鐘の、ゴーン、という音とともに、日本から消えた男のことを覚えておいでだろうか。除夜の鐘の音のような名を持ちながら、その煩悩ゆえに、逮捕された男。

 その名は、カルロス・ゴーン

 2020年の正月、ゴーン逃亡のニュースは、新年を祝うお茶の間を駆け巡った。しかし、疫病の流行に伴い、その存在を語る者はいなくなった。だが私は、彼を忘れることが出来ない。


 あれはいつのことだったか、夫と旅先のアウトレットモールへ出向いたときのこと。普段そこまで、洋服にこだわりはないものの、良い物が安いとなると、やはりそれなりに心ときめくものだ。私は、とあるアウトドアブランドの、赤いダウンジャケットに目を留めた。

 おぉ、いいなぁ。

 値段を見ると、1万円ほど。そこのブランドは高めなので、この価格は大特価だ。しかし洋服に3000円以上払うのに抵抗のある私は、大いに迷った末、後ろ髪引かれつつも、売り場を後にしてしまった。

 やっぱり買っておけばよかったかなぁ…。

 宿泊先のベットで転がりながら、鮮烈な赤い色が脳裏にちらつく。翌日、宿をチェックアウトし、車に乗り込んでも、まだ、あのダウンが頭から離れない。
「やっぱり、あのダウン買っておけばよかったかなー」
 後悔は口にすると、更に悔しさが増す。

「まだ時間あるから、寄ろうか?」

 夫が運転しながら、私に言う。思わず手を合わせそうになってしまった。夫が神々しい。

 早速、昨日と同じアウトレットモールに向かってもらった。夫が店の外で待つと言うので、私だけ足取り軽く入店しようとすると、

「ちょっと待って。その格好で行くの?」

 と、夫が私を呼び止める。
 このとき、私は、ごく普通のカジュアルな格好をしていた。これで宮中晩餐会に行こうというのなら、引き止めてもらっても構わないが、今日はただの買い物である。なぜ、引き止めるのか。

「昨日と同じ格好だと、恥ずかしいよ。店員さんに、あー、昨日、服見てた人が、諦めきれずに来たって思われるもん」

 私は、そんなこと気にしない。

「店に入るの私だけなんだから、いいじゃない」
「ダメ」
「だって、他に服なんて無いもん。いいよ、このままで」
「ダメ」
「じゃぁ、どうすんのよ」
「コレ着て」

 夫が、自分の着ていたジャケットを脱ぎ始める。私にこの場で、上着だけでも変えていけというのだ。

「えー、面倒くさいよ。嫌だよ」
「じゃあ、買ってる間に、置いて帰っちゃうよ」

 この人は何を言っているのだろう。
 さっきまで、あんなに神々しかった夫は、どこへ行ってしまったのか。しかし、置いていかれては、困る。私が、渋々、夫のジャケットを着ると、夫は、こうした方が良い、こうした方がバレない、などと言って、襟を立たせたり、マフラーを結んだりして、昨日とは違う私を作りはじめる。置いていかれては困るので、私は無言で、されるがままになっていた。

「うん、これでいいよ」

 ようやく夫の許可がおりた。私は一人、いかにも「この店には初めて来ました」という顔で入店。売り場に行くと、お目当ての赤いダウンは、まだ残っていた。よしよし、とハンガーに手をかけようとした次の瞬間、

「昨日はどうも!」

 と、ウェーブヘアの男の店員さんが、私の視界にひょっこり入り込んだ。

 速攻でバレた。

 「昨日もいらっしゃいましたよねー」
 などと言われながら、私は、ハハハハハ、と乾いた笑いでごまかす。笑顔って、こんなにも自然にひきつるんだな……などと思いながら、夫に対する恨みが募る。

 やはり、昨日と同じ服で、普通に入店すればよかったのだ。
「やっぱり、諦めきれなくて、来ちゃいましたー」
 などと言えば、店員さんとの会話も弾んだだろう。下手な変装をしたせいで、私はこんなにも恥ずかしい思いをしている。私は、顔から火が出る思いを抑えながら、会計を済ませ、足早に退店。外で待つ夫に、言い放つ。

「即バレだよ! 店員さんに、昨日はどうもって言われたよ!」

 夫は、あれぇ?と首を傾げ、えへへへへーと笑っている。笑ってごまかすな。鼻息荒く、夫のジャケットを脱ぎ、
「あんたのせいで、恥かいたわよ。もぉぉぉー!」
 と言うと、まぁいいじゃない、牛みたいに鳴いちゃいけないよ、などと言いながら朗らかに笑っている。

 変装を見破られることほど、恥ずかしいことはない。

 2019年3月、10億もの保釈保証金を納付し、ゴーンは釈放された。集まる報道陣の目をかいくぐるため、担当弁護士は、ゴーンを作業員姿に変装させる。しかし、その変装は、私のように秒で見破られ、作業員に変装したという、珍妙な行動だけが笑われることとなった。

 私は思う。
 ゴーンは、本当に、その罪から逃れるためだけに、日本から逃亡したのだろうか。本当は、あの変装がバレて笑われたことが、恥ずかしくて、あの変装のことを知らない国に行きたかっただけなのではないか。

 ゴーンは私とは違って、あの辱めに耐えることはできなかったのだ。プライドが高すぎるというのも、考えものである。




その他の夫とのエピソードはこちらのマガジンにまとめています。


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