年齢と時間の謎
私は、過去を思い返していた。
その頃は二月の上旬で、バレンタインデーの話題が多くみられた時期だった。私もその雰囲気につられ、中学時代に好きだった同級生の男の子のことを、何となく思い出していたのである。
その男の子を好きだった頃から30年が経つ。なぜ彼を好きだったのだろう。そんなことをあれこれ考えてみて出た答えは、顔と雰囲気が好みだった、という身も蓋もないものだった。やはり性格とか、趣味が同じだとか、そういった理屈で恋に至るわけではないらしい。今の私なら、彼を好きになっただろうか、ならないような気がするな、そんなことを思う。
彼からしてみれば、勝手に好きになられて、30年後にまた勝手に思い返され、何で好きだったのか、などと私に思われているわけだ。とんでもなく失礼な話である。
こんなふうに私は、中学時代好きだった男の子に思いを巡らせていたわけだが、そのとき、
「あー、そういえば、あの子は今、いくつになったのかなぁ」
ごく自然に、そう思った。そして、その次の瞬間、私はハッと我に返り、
「43だよ!」
口に出して、思わず自分にツッコんだ。同級生なのだから、私と同い年の43歳に決まっている。こんなことを思ってしまった自分に驚いた。彼が今、どんな大人になっているかは知らないが、彼の時空だけが歪んだりしていなければ、43であることは間違いない。
なのに、なぜ私は一瞬で、自分と彼が同い年であることに気が付かなかったのだろう。彼の時空ではなく、私の時空の方が歪んでいたのかもしれない。年齢や時間における、自分の認識の曖昧さが怖いと思ったし、またそれを面白いとも思ってしまった。
中学時代好きだった男の子は、いつまでも中学生のままで、その印象は更新されない。もしかして同窓会というものは、旧友との再会をする場ではなく、時間の経過を再認識するための場なのではないか、そんなことすら考えてしまう。
私は23~30歳くらいのとき、自分の年齢がいくつだかわからなくなった時期がある。夫の年齢と、年齢差は覚えていたので、夫の年齢から、年齢差を引き算して、自分の年齢をいちいち確認しているような有様だった。
同級生の年がわからなくなった事実に直面し、私の中にある、年齢や時間というものを曖昧にしてしまう感覚が、また顔を出してきたように感じた。
楽しい時間はあっという間、などと言う。
大抵、ワクワクするような時間は過ぎるのが早く感じるものだ。楽しい1時間と、予定が変わって、時間を潰さなければならなくなった1時間とでは、体感がまるで違う。時計を見ずに、体感だけを頼ると、時間は実に曖昧なものだ。
先日、買い物前に、つい角田光代の短編集を手にしてしまい、読みふけってしまった。二編ほど読み終え、しまった買い物!と思い、時計を見てみたら、まだ30分ほどしか経っていないことに驚いた。そのとき私は、
もしかしたら、どこかで時間が止まっていたのではないか。
そんな錯覚に陥った。読書に没頭する私が、時間という概念を飲み込んで、時を止めた。そんなふうに思ったのだ。
時間というものは、もともと強く意識しないと、その経過を認識しにくいものなのかもしれない。
朝7時に起きる、という意識。
夜7時にご飯を食べる、という意識。
そういった繰り返しの中で、自分の体感時間と、外の世界で流れている時間を擦り合わせ、調整しているのかもしれない。
自分が意識している「今」というものは、何時何分何秒という時間とは、異なるもののように感じる。
「今、何時だろう?」と意識したときに、認識される時間と、自分が感じることができる「今」は同じようでいて、緑色と黄色くらい違うものだと私は思う。
そんなことを考えていると、何だか自分がタイムトラベラーのような気がしてくるから不思議だ。状況次第で、過ぎる時間を長くも短くも感じることができ、止まっているかのように感じることもできる。
私の中にいるのは、いつでも私そのものであって、年を重ねていることを意識した自分ではないのだろう。だから私は、23歳のときには、自分が26くらいな気がしたし、今は厚かましくも自分は38歳くらいな気がしているのだ。
そんな思いを書き綴っていると、何だか自分が、夢の中で暮らしているような、そんな、うつらうつらした気持ちになってくる。
もし今、また時間が止まったような感覚に陥ったら、私は二度と、元の時間に戻れなくなってしまうのではないか。
そんなことを思って、背筋が寒くなった。
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