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金柑の思い出

 金柑キンカンを見ると、思い出す人がいる。
 ひとりは母で、もうひとりはデパ地下で出会った通りすがりの女の人だ。

 金柑は、ピンポン玉ほどの小さな柑橘類の果物だ。ひょっとしたら、卓球もできるのではないかと思えるくらい、丸くてコロコロとしている。

 私の母は、旬になるとこの金柑をよく買って食べていた。母の口から、
「私、金柑大好きなのよぉ」
 と言っているのを聞いたことはないので、大好物ではないのだろうが、時期になると、母は一人で金柑を食べていた。

 随分前に、夫、祖母、母、私の4人で旅行に行ったとき、母が旅館の部屋に金柑を持ち込んだことがあった。これから豪勢な夕飯を食べようというのに、ひとり、金柑を丸ごと口にしては、妖怪のごとく、にゅーっと種を吐き出している。その様子をジーッと見ていると、
「食べる?」
 と聞いてきた。私だけではなく、祖母にも夫にも聞いている。そして全員に、
「いらない」
 と言われ、ちょっと不服そうに、
「あっそ」
 と言い、金柑を食べ続けていた。


 それから数年経ったある日のこと。
 私は、近所のデパートの地下食品街で買い物をしていた。ちょうと時期だったようで、生鮮食品売り場の一角に、金柑の試食が置いてある。妖怪のように金柑の種を口から出していた母の姿を思い出し、私の口元がニヤリとゆるんだ。

 そこに、一組の若い夫婦が通りかかった。妻の方が金柑の試食の前で足を止め、
「あ、金柑だ」
 と言い、ひとくちで口にポン!と放り込む。その姿を夫の方は、訝しいぶかげな目をして、だまって見つめていた。妻が、
「食べる?」
 と聞くと、
「いらない」
 夫はつれなく言う。
「えー、喉にとても良いんだよ」
 と言って、妻は種を紙にスッと出して包み、備え付けのゴミ袋に捨てて去って行った。

 私はその一部始終を見ていた。

 それまで金柑は、母くらいの年齢の人が好んで食べるものだという印象があった。金柑を、普通に試食して去っていった女性を見て、私のその思い込みは一掃された。
 しかも喉に良いという。
 その日私は、何となく喉の調子が悪かった。せっかく、試食も出ている。元来、好き嫌いが多い性分ではあるが、なんとなく、食べてみたいと思い、その日私は、生まれて初めて金柑を口にした。

 衝撃であった。

 皮ごと食べるなんて、苦いに決まっている、と思っていたが、噛めば噛むほど、きゅっと甘酸っぱい果汁が口に広がっていく。何よりも驚いたのはその香りであった。ひと噛みするごとに、体中の毛穴という毛穴から、金柑の香りが放出されているのではないか。そう思えるほどの凄まじい香りが、勢いよく体中を駆け抜けていくのだ。一言で言うならば、

 これは食べるアロマオイルだ。

 世の中には様々な柑橘類があれど、これほどまでに感覚を刺激する柑橘類を食べるのは初めてだった。呼吸をすれば、先程食べた金柑アロマが、口から鼻へ、出たり入ったりする。女性が喉に良いと言っていた理由が、たったひとくちで体感できてしまった。
 気がつけば私は、売られていた金柑をレジカゴに入れていたのである。

 その年は、買い置きが無くなる度に買って食べるほど、金柑にハマった。時期が終わるのが惜しくて、慰みに金柑酒を作ったりもしたが、あの体全体を駆け抜ける金柑のアロマは、残念ながら、お酒では味わうことができなかった。やはり金柑は、新鮮なうちに、生で食べるのが一番である。

 金柑の旬は、1月中旬から3月上旬までらしい。

 金柑を食べる際、種を嫌う人が多いようだが、ヘタを横向きにした状態で半分に切り、楊枝や竹串で、前もって種をほじくり出しておくと、母のように、にゅーっと種を口から出さなくても済む。種を気にせず、味わう金柑は、心身ともにリフレッシュできる最高のアロマテラピーになるはずだ。

 それにしても、母といい、あの試食の女性といい、やはり金柑を口にする人は、
「食べる?」
 と、つい、人に聞いてしまいたくなるのだろうか。
 金柑を指でつまみ、上目遣いで
「食べる?」
 と聞いてきた母の姿を思い出すと、未だに私は、何だかおかしくてニヤニヤと笑いがこみあげてきてしまうのである。


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