時短と平和 #短編小説
平和とは……。
突然、妻がそう呟いた気がして目をやると、スマホの画面を食い入るように見つめ、考え込んでいた。
今は夏。終戦記念日も近い。
「やっぱり夏って、そういうことを考えちゃうよね」
夏休みの登校日に見せられた、戦争映画を思い出しながら僕が言うと、
「うーん、暑いから時短もしたいし、やっぱり必要かなって思ってねぇ」
妻はふぅと息をつきながら、スマホをスクロールした。
「時短?」
時短と平和に関わりなどないように思えるが、令和の今、平和よりも、タイムパフォーマンスに関心が集まっている。
時は金なり。確かに、時短は大事だ。
だが行き過ぎた時短は、人の心を豊かにするより、かえって気忙しさを生み出しているような気がしてならない。
僕がつい、そんなことを思ってしまうのは、子供の頃、親から散々のろまと言われ、何をしても「早く早く」と急かされていたからだろう。
僕は昔から、ゆっくり物事に取り組むタイプだった。兄貴がなんでもササッとこなす秀才タイプだったので、尚更、僕のどんくささが親の目についたらしい。兄貴と比べられ、のろまと揶揄されたことを思い出すと、未だに胸がしぼんだような気持ちになる。
「時短かぁ。今は何でも時短だもんなぁー」
思わずため息が漏れた。
「え? 時短、ダメなの?」
「いや、ダメじゃないけどさ――」
「ないけどなによ」
「そんなに慌てたって仕方がない気がするんだよね。ゆっくりじっくりやっていくのも、悪くないと思うんだけどなぁ」
「手早くできることはサッと済ませて、残った時間を有意義に使うことも、悪くないと思うけど?」
気色ばんだ妻を見て、僕は慌てた。
「も、もちろん、それも悪くないよ」
このままでは我が家の平和が、《時短》のせいで危機を迎えそうだ。
「兄貴と比べられて、おまえはのろまだって言われてきたから、時短って言葉に、ちょっと反発しちゃうんんだよね」
言い訳のように話すと、妻は驚いたような顔をした。
「えぇ? 私、あなたのこと、のろまだなんて一度も思ったことないよ。あなたはのろまじゃなくて、丁寧な人なのよ」
「丁寧?」
「そう。――この前、あなたのお義兄さんの家に行ったとき、キッチンに新しい食洗機があったの憶えてない?」
大きな機械が、水回りを占領していた。
「あれ、家庭の平和を守るために買ったんだって」
「家庭の平和?」
「お義兄さんが食器洗いをすると、洗い残しがあって二度手間だったらしいのよ。それを、いちいち指摘すると不機嫌になってケンカになるから、食洗機を買ったんだって」
食洗機は食器を洗うだけではなく、夫婦喧嘩を未然に防ぐ、大事な役割も担っているらしい。
「それ聞いて、同じ兄弟でも違うんだなぁって思ったわ。だって、あなただったら、洗い残したりなんて絶対にしないもの。いつもお皿がキュッキュって鳴るくらいピカピカに洗ってくれるじゃない」
「そうかな?」
「そうよ。お義兄さんは手早いけど雑で、あなたはゆっくりだけど、そのぶん丁寧なの。だから、のろまなんかじゃない。そんなこと言う人の目が節穴なのよ」
妻の今のセリフを、子供時代の自分に聞かせてやりたい。
「うちは食洗機なんていらないけど、そのかわりに《平和》を買いたいのよねー」
「平和?」
急に話の規模が大きくなった。
「Amazonだと17688円なんだけど――」
Amazonで買えるタイプの《平和》のようだ。
「なに? 白い鳩でも買って空に飛ばしたりするの?」
僕が言うと、妻が呆れた顔をした。白い鳩は平和の象徴だが、どうやら、そういう類の平和ではないらしい。
「何言ってんの。圧力鍋のことよ」
「圧力鍋?」
「そう。《平和》っていうメーカーの圧力鍋があるの。こういう鍋って値段がピンキリなのよねー。昔ながらの重りが揺れる《平和》のほうがいいかなぁと思ってるんだけど、値段が安いのは《ワンダーシェフ》なんだよね。平和とワンダーシェフ、どっちの圧力鍋がいいか迷ってたのよ」
妻の突然の呟きは、
「平和とワンダーシェフ、どっちがいいかなぁ」
というひとり言が微かに漏れたものだったらしい。それが僕の耳に「平和とは……」と聞こえてきたのだ。
「で、圧力鍋でなに作るの」
気を取り直して訊いてみる。
「玄米も炊けるし、いろいろできるけど、ぶりかまを煮てみたいのよ」
「ぶりかま?」
「ほら、駅弁でぶりかまめしって食べたじゃない?」
骨まで柔らかいぶりかまが、ご飯の上にデーンと乗った、美味しい駅弁だった。
「あなたが美味しいって言ってたから、家でも食べさせてあげたいと思って。圧力鍋なら、何とか骨まで柔らかくなると思うんだけど……」
妻はストレスがたまると、出刃包丁片手に魚を捌く料理好きである。
「料理はね、家事じゃないの。創作活動なのよ!」
そう息巻いて、芸術家のような面持ちでキッチンに立っている。
きっと、冬になったら活きのいいぶりを買って捌き、刺身にしゃぶしゃぶに、照り焼きに、最後はぶりかま煮にして、食べさせてくれるかもしれない。想像しただけで、ゴクリと喉が鳴った。
まだ、うだるほど外は暑いが、今から冬が楽しみだ。
「じゃあ、圧力鍋は俺からのプレゼントね。好きなの買っていいよ」
そう話すと、
「本当? やったー!」
彼女は両手を手を上げて喜んだ。
そんな妻の顔を見ていると、確かに、平和はAmazonで買えるのかもしれない、などと思う。
まずは家庭が平和であることが、世界平和の第一歩だ。そのためにも僕は、丁寧に皿を洗おう。
「あ、そうだ。ついでに、食器用のスポンジも買っといて」
僕が頼むと、
「あなたが使いやすいって言ってたやつ、買っておくね」
そう言って妻は、上機嫌でスマホの画面をタップした。
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