心、呼び覚ませ
人情、という言葉を聞いて、思い浮かべるものはなんだろう。
webで検索してみると、実に簡単に、
人にそなわる自然な、心の動き。情・思いやり。
そんな意味が出てきた。
だが、人情というものは、実際の意味よりも重たく、人を束縛するような不自由さを感じさせる。どことなく湿り気があって、そこに陶酔しきってしまうのは、自分の冷静さを失うようで恐ろしい。
江戸物などの時代小説を読んでいると、現代では些末に扱われがちな、《人情》《忠誠》《辛抱》《貞操》というものを描いていることが多い。
今、現代小説でこれらのことを正面切って描こうと思ったら、古臭いと思われてしまうだろう。
でも、時代小説だと、こういった人の心をじっくりと味わうことができる。
だからだろう。
時代小説を読むと、すっと背筋が伸びる気がして心地いい。
先日、笹目いく子さんのデビュー作、独り剣客 山辺久弥おやこ見習い帖 (アルファポリス文庫)を読んだ。
大名家の庶子(婚外子)として生まれ、市井に身をひそめ孤独に生きてきた岡安久弥は、三味線の師匠をして生計を立てている。三味線の腕もさることながら、刀を握らせたら、鬼神のごとき戦いぶりを見せる一刀流の使い手だ。
文政の大火の最中、久弥はある幼子(男の子)を拾う。
久弥と迷い子との交流。三味線の稽古に通ってくる芸者、真澄との絆も深まる中、久弥の生家の後嗣争いが、日々の暮らしに暗い影を落としていく。
久弥は、自身の《大名家の庶子》という立場に、これでもかと翻弄される。
孤独を背負う覚悟で暮らしていても、生きていればどうしたって人と関わる。その関わりが深いものになればなるほど、自分の立場に周囲を巻き込むことになる。
それに苦悩する久弥を見ていると、胸が詰まりそうだ。
物語の中の登場人物たちは、江戸時代ならではの理不尽さに、拳を固め、歯を食いしばり、辛抱する。
現代人である私から見れば、その姿は実にじれったい。
それぞれの事情を抱えて、グッと堪える姿がいじらしく、もう全員まとめて、令和の世につれてきて、
「さぁ、ここで好きに生きなさい」
と言ってあげたくなる。
この物語を読んでいる間、私の心は常にジェットコースター状態だった。
やるせないと思ったら、心温まり、ホカホカにあったまったと思ったら、バッサリと身を切られるような切なさに襲われるのだ。
ちょうど、物語が中盤に差し掛かったころ、ほわほわと心温まるシーンがあり、私はそれを味わい尽くすような気持ちで目を閉じた。
チラリと薄目を開けて、物語がどこまで読んだか、進み具合を確認してみる。
何度確認しても、物語はまだ中盤だった。
どう考えても、ここで終わらない。
中編小説だったら、この辺で終わるところだが、このお話は長編である。
私は溜息をついた。
この先にはまだ、何かある。
そう思ったとき、私はここで読むのをやめようと思ってしまった。
この先、何かが起こることは明々白々で、しかもそれが、久弥の運命を揺さぶるものになることは、想像に難くない。
登場人物たちが《絶対に》つらい目に遭うことがわかるからこそ、先を読むのがつらかった。
律して生きている人の、更なる辛抱を見るのはつらい。
もうやめてあげて、もういいじゃないか、と思う。
だが、そうやって心揺さぶられるとき、自分の中に潜んでいる《人情》が、
ここにいるよ。
と、動いているのがわかる。
時代錯誤だと思って、長く押し殺していたものに血が通い、体温を上げていくのがわかるのだ。
こういうとき改めて、やっぱり時代小説は良いなぁと思う。
人情というものは、どこか古臭い。辛抱も忠誠心も貞操も、現代人にとっては化石のように映るかもしれない。でも、こういう物語を読むと、自分の中に眠っている感覚が、呼び覚まされるような気がする。よみがえるものがある。
この作品、元々は「調べ、かき鳴らせ」というタイトルで、2022年、アルファポリス第8回歴史・時代小説大賞に輝いた。
書籍化にあたり、「独り剣客 山辺久弥おやこ見習い帖」というタイトルに変更されたのだが、すべて読み終えたとき、この「調べ、かき鳴らせ」という旧題が、心に染みわたったように感じた。
もし、この作品を手に取る機会があれば、是非、この「調べ、かき鳴らせ」という旧題にも思いを馳せ、その読後感を味わってほしい。三味線の音が心地よく耳に残るはずだ。
笹目いく子さんのnoteはこちら↓
お読み頂き、本当に有難うございました!