どうでもいい命
ある人の発言が話題になっている。今その人は活動の場をネット配信に移しているようだ。私はその発言をした動画を見たわけではないが、発言の書き起こし記事を見て何だか胸がヒリヒリした。
(こちらの記事を引用したのは、発言の内容が記されているからであり、他意はありません)
私にはこれらの発言が悲鳴のように聞こえた。彼の心の中には何があるのだろう。そしてこの発言に同調してしまう人の心にうごめくものはなんだろうか。そう思い、ヒリヒリしてしまった。
驕り、という見方もできるとは思うが、それだけではない気がする。
不公平感や不満、強いコンプレックスを感じて生きている人は多い。そんな充足感の欠如が、特定の対象を軽んじたり、憎むことにつながっているように思えるのだ。
「自分にとって必要のない命は僕軽いんで。ホームレスの命はどうでもいいんで」
彼の発言の中で私が気になった部分である。
故・福田赳夫氏がダッカ日航機ハイジャック事件のときに述べた
「一人の命は地球より重い」
という言葉は有名だ。この発言は「地球より」という比較を与えたことによって、人の命の大切さを強調している。しかし命というものに軽重を用いた表現をすることは、とても危ういことなのかもしれない。命の大切さを「重い」と表現してしまうことで、対義語である「軽い」が安易に浮かび上がってしまうからだ。
この命は重いけれど、この命は軽い。そうやって必要か不必要か、損か得かと優劣つけるのは人間のエゴがやっていることである。人間のエゴの恐ろしさは、時に神を超えようとしていることに気がつかないところだと思う。
彼の発言を優生思想的な考え方だと見る人もいる。
社会の役に立つ人を「優れた人」だと判断してしまいがちだが、それはとても窮屈なことだと思う。顔の見えない社会に人や自分の価値を委ねてしまうことに、私は危うさを感じている。その判断を受け入れることは、自分を見失うことにつながるからだ。
他者に対して生産性がないと蔑むことは、自分にそういった価値を強く求めていることの裏返しのような気がする。社会的価値や生産性のある人間でなければならないという強迫観念に手足を縛られているように見えるのだ。
だから私は、彼が悲鳴を上げているように感じたのかもしれない。現在、彼は多額の納税をし、自分には社会的な価値があると思える状況にある。しかし今回のような発言で信用を失えば、それが無くなってしまう可能性だってゼロではない。自分の活動や言動を支持する人間がいなくなったとしても、彼は自分を心の底から肯定し、愛することができるだろうか。
「自分にとって必要のない命は僕軽いんで。ホームレスの命はどうでもいいんで」
他者を軽んじる人は、心のどこかで同じ言葉を自分に投げかけている気がしてならない。己の優劣ばかり気にしている状態は、人の命だけではなく、本当の自分を軽く見ているのと同じような気がする。
基本的に人間というものは、優しくしたり、愛したりしたい生き物なのではないだろうか。卑劣極まりない人間が存在するのも事実なので、賛否あるとは思うのだが、そういうベースがなければ、人類はとうの昔に滅亡していたと思う。
本来愛したい性質を持つ人間が、こういった発言をするということは、本質から乖離する行為だと感じる。本質から離れることは心の苦しみを生むものだ。
本来の自分とは何なのか、それが自分の見ている世界と、どうつながっているのか、それをひとつずつ腑に落としていくことが生きる意味のひとつなのかもしれない。
お読み頂き、本当に有難うございました!