[コラム 9] 改めてそばにいるコンピュータについて考える

料理名人といえども、常に新しいメニューを創造的に考え続けることは大変だ。わたしもパンとスイーツを作っているが、何を作ろうか、いつも考えている。それだけで大変だ。

若奥さんは子どもたちへのキャラ弁作りに苦心惨憺。スマホのレシピガイダンスに頼らざるを得ない。

それでも若き料理人、油の乗っている板前ならばそれも可能かもしれない。ヒトである限り好不調は必ずある。カゼを引き味がわからないときもあれば、加齢との闘いもある。

例えばだが、それを解決したのがIBMのコグニティブ(そばにいる、どこにでもいる)コンピュータ『シェフ・ワトソン』だ。シェフ・ワトソンに料理のお題やテーマ、料理の種類を入れると何通りものレシピをあっという間に提出してくれるそうだ。

例えば、「フレンチ、春、魚」というふうに入力するだけで幾つものレシピを提案してくれる。これらの中から気に入ったものを人間のシェフが選び調理する。場合によっては、盛り付けも人工知能が提案したものの中から選ぶことができる。

もちろん、シェフはメニューを選ぶセンスと味付けするヒトの感性が問われることはこれまでとなんら変わらない。

これこそヒトとコンピュータとの良好なコラボレーションで、人工知能とヒトとのかかわりを示した好例になるだろう。

では科学の分野での研究者と人工知能との協力関係はどうなるのだろうか。料理のレシピと同じように、課題を『ノーベル・ワトソン』(こういうものがあったとして、著者がかってに付けた仮名)に入力すると、幾つもの解決方法が提案される。

その中には普通の方法や、まったく思いもつかない奇想天外な提案もあるだろうから、その中から研究者が取捨選択して、実際に実験し、新たな問題点を発見しながら発明を完成させていく。

その中に研究者独自の第六感やインスピレーションが含まれるのはこれまでと変わらない。そして、その先にセレンディピティー(偶然に生まれた発明や発見のこと)につながる大発見や大発明が見つかるかもしれない。

しかし、この研究者は、果たして真の発明者といえるのだろうか。期待していたインスピレーションは的(まと)が外れ、ただ単に人工知能に言われたとおりに実験しただけの助手ではなかったのか。

であるならば、これはとても悩ましい問題が浮上してくる。

ところで、発明が生まれる背景には、必ず問題点や困ったこと、こうなればいいなという希望や夢が存在する。

困難に直面して迷ったり、落ち込んだり、逆にわずかな光明に希望を感じるのは人間だけだ。人工知能やロボットは悩むこともなければ、わずかな光明で喜んだりはしない。

映画『チャッピー』(ニール・ブロカンプ監督、2015年)では、人間の知性を模倣した人工知能ソフトをインストールしたロボット、赤ちゃんのようなまっさらな心しか持たないチャッピーが強盗団に誘拐され育てられる。
その後『チャッピー』は善と悪、喜びと悲しみに大いに悩むことになる。この映画のようにロボットでも人間の心をインストールされたら悩むのだろうか。
恋をして夢を見て、あえなく恋に破れ涙を流すのだろうか。
そして、ロボット『チャッピー』は女性なのか、男性なのか。恋が実っても結婚はできるのだろうか、やがて子供ができないと、再び涙を流し悲しむのだろうか。

人間をはるかに越えた完全無欠な人工知能は、「人間と同じように考え悩むはずはない」、とするならば、多くの発明は人工知能からは生まれてこないことになる。

不完全である人間だからこそ、それを埋め合わせるためにいろいろと工夫を凝らし、新しいモノ、これまでにないモノを発明し、創り出そうとするのではないだろうか。

ウィリアム・シェイクスピア作「ハムレット」の、
――生きるべきか、死すべきか、それが問題だ――
の名台詞が、ヒトとしての未来人の証明のひとつになっているのかもしれない。

「君は悩んでいますか」、との問いに「悩みなんて何にもない。俺は完璧だ」。なんて答えようものなら、冗談抜きに人間界から放逐されるかもしれない。

「あれは人間に似せた精巧に作られた人間の模倣品だ」、とね。
                         つづく

[コラム 10]改めて棋士と将棋ソフトの関係について考える
 チェスでも、囲碁でも将棋の世界でも人間がゲームソフトに勝てることはなくなった。そしてこの世界から人間の棋士がいなくなると懸念されていた。
 ところが、いま、藤井聡太二冠が現れ、人工知能を超えたとうわさされている。なぜだろうか…。

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