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エロス

こんにちは。

性的描写を多用する文学作品が巷には溢れ返っています。その是非を議論するつもりはありませんが、生々しい描写のオンパレードですと『ウゲー』『そんなところまで書かなくても良いんじゃないか』となります。まあ、それが文学作品だと言われますと、『はあ、そうですか』となります。

僕の作品は、そこまで熱心に性的描写を書きません。それは三島由紀夫先生の公演で言われました内容に準じているからかも知れません。

三島由紀夫先生の公演


自己と社会との関係は、私は小説家として出発しましたから、社会というものは敵である、というふうに考えていました。そう思わなければ、小説なんて書くバカはいないんです。社会から認められるということと、敵であるという二つの面がある。そして、自分が社会というものに適合するのかどうか。自分の文学的才能というものが、一つの社会の言葉に成りうるのだろうか。そういう不安が文学の出発点です。ですから、その不安がなく文学を始める奴は、文学を本当に始めたとは言えない。つまり、社会の使っている言葉でお話しを組んで、男と女が寝れば、小説だと思っている人がいる。そうじゃなくて、自分の言語というものは、自分の中から出てきた。あるいは、自分の意識しない、言葉が存在しないようなところから出てきている。そうれをどうやって言葉にして、言葉というものは社会的性質ですから、どうやって相手に分からせて、社会に理解させようか、ということが私の文学の出発点・・・。

長い公演の一部となります。

三島由紀夫先生らしい、文学への洞察です。僕も納得出来る箇所があります。確かに、男と女が寝るだけという似非文学が散見します。そういった文学には辟易してしまいます。

しかしながら、美的なエロス描写も存在します。あくまでも主観です。

それは・・・。

川端康成先生『眠れぬ美女』


江口の老眼には、娘のまつ毛も眉もひとすじひとすじは見えない近さにあった。うぶ毛も老眼には見えない娘の肌はやわらかく光っていた。顔から首にかけてほくろ一つなかった。老人は夜半の悪夢なども忘れて、娘が可愛くて仕方がないようになると、自分がこの娘から可愛がられているような幼ささえ心に流れた。娘の胸をさぐって、そっと掌のなかにいれた。それは江口をみごもる前の江口の母の乳房であるかのような、ふしぎな感触がひらめいた。老人は手をひっこめたが、その感触は腕から肩までつらぬいた。


『眠れぬ美女』の随所に顔を出す描写に、非常なエロスを感じるのは僕だけでしょうか・・・。このエロスには、巷に溢れる裸体が交わる動画よりも、コンビニに並ぶグラビアアイドルの写真集よりも、美的なエロスを感じます。それは川端康成先生の美的感覚からひねり出された、日本語の美的エロスなのでしょう。

『眠れぬ美女』は、エロス追求の小説ではありませんので、誤解のないようにお願いいたします。

エロスの描写は非常に難しいと思います。しかしながら、作風や作家の本質を決めるような大事な箇所とも言えます。

僕が書きました小説の一部を抜粋します。

花子文学の一部


 哲は寝巻きの隙間から祥子の身体に触れた。すると、祥子の息は少しずつ荒くなってゆく。祥子の荒くなる息に合わせ、触る位置をずらしてゆく。しかし、高鳴る性欲と、意識の沈着さは別の速度で動いている。世間の話題性を掴むため年の差婚をしているという自分の醜い影が大きく膨らみ、祥子の裸体を弄る手の感覚を激しく蝕む。勿論、魅力的な祥子を心から愛して結婚したのは、天地返しが起きようとも変えることの出来ない事実だ。それを美点と呼ぶべきか汚点と呼ぶべきか判別出来ない。いや、美点や汚点の二つだけでは到底表すことが出来ないだろう。
 祥子の身体を触ることで得ることの出来る快楽と、不穏な影に蝕まれながら失う苦心とを比較してみる。夜空に輝く星の数を、目視で数えるような難解なことだと頭では理解している。しかし、思考が止まらない。そして、高鳴る性欲も治らない。次第に、祥子の口から漏れる息が益々荒くなっていった。


ここまでです。これから先は、次の場面に切り替わります。自分の描写の優越を争うものではありませんが、記録としてnoteに残そうと思います。


エロスの描写につきましては、これからも思い悩むと思います。ですが、目指す文学から離れないよう、本質を見失わないように、日夜精進してゆきます。


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花子出版  倉岡 

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