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雲の影を追いかけて    第9章「前半」全14章



第9章「前半」


 夏の音が部屋に入り込んでくる中、真剣な眼差しの裕は新調したパソコンに向かって執筆を進めていた。芥川賞受賞以降、一冊の中編小説を発行した。『年の差婚』という話題性の波に揺られ、書いた小説はなかなか売れ行きだった。それ以外にも、機内誌や、月刊誌、地方紙からの依頼も増え、執筆の仕事は安定した。

 祥子が扉をノックした。

「ねえ。今日父さんのところへ行こうと思うけれど、裕君はどうする?」

 裕は椅子を回し、振り返る。化粧をしていない祥子が、無地エプロンを着けていた。

「うん。一緒に行くよ。この章がもう少しで書き上がるから少し待ってて」

「分かったわ」

 祥子は階段を降りた。祥子の階段を降りる一音一音が、裕の部屋の壁を伝わった。聞き慣れた音だが、祥子の膝に纏わりつく痛みよって、テンポが若干遅くなっている。先日、祥子は還暦を迎えた。肉体の老化の速度が加速し始めた、と裕は薄々感じていた。

 原稿を保存し、パソコンの電源を落として階段を降りる。ゆっくりと。

「お仕事お疲れ様。お茶でも飲んでいく?」

「そうだね。頂こうかな」

「準備するね」

 祥子はキッチンへ向かった。裕は、本棚から和夫が読んでいた本を手に取り、ソファに座った。何気なくページを開くと、和夫が書いた文字が目に入る。力強い、濃い鉛筆で書かれた文字だった。

『生きるとは残酷なことなのかも知れない』

 文字には生気が宿り、裕の情念に訴えかけた。

 書き込みをした和夫は入院して以降、軽い挨拶や用を足す時以外、口を閉ざした。裕や祥子が話しかけても、返事をすることはない。瞳もどこか別の世界を覗き込み、眼が合っても視線が瞳を擦り抜ける。死期が近づいている、と主治医は言った。主治医の意見がなくとも、裕は和夫の死期を肌で感じていた。

 大富豪の全財産を費やしても、又世界中の物理学者で議論しても、和夫の書き込んだ言葉の意味を解き明かすことは出来ない。感情を生む、死の言葉だ。

 裕は、無重力空間に放たれて遊泳させられるような不思議な感覚に陥った。答えの出ない様々な挿話が浮遊し、答えを探そうと懸命に踠くも、一向に進まない。

 祥子がお茶を持ち戻ってきた。テーブルに急須と湯飲みを置き、ゆっくりと淹れる。

「いつも、ありがとう」

 裕は祥子の淹れたお茶を飲んだ。踠いていた感情が幾分落ち着く。

「ねえ、裕君。父さんが、死んじゃっても、私と一緒に居てくれる?」

 祥子の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。

「なぜ。そんな事を聞くの?」

 裕は湯呑を置き、寂寥を肌に塗った祥子の表情を覗き込んだ。

「分からない。でもね、最近不安になることがあるの。これから、私の老化の速度がどんどん速くなると思うわ。白髪だって、今は美容室で定期的に染めているけれど、それもいつまで続くか分からない。足腰の衰えは、恐ろしいくらい。
 裕君は有名な作家だよね。こんな私がいなくても、もっと綺麗な人が放っておかないだろうし。例えばね。宮田夏菜子さんみたいな上品な女優とか・・・」

 祥子はお茶を飲み、か細い溜息を宙に浮かべた。

 裕は夏菜子の名前が出てきたことを驚いた。夏菜子とは週に数回程メールのやり取りをし、そして偶然にも、今日会う約束をしていた。勿論、祥子に夏菜子と連絡を取っていることを隠していた。

「人間は誰しも老いていくものだと思う。路肩で育つ、タンポポが萎れるように。勿論、還暦を迎えた祥子さんの気持ちを、僕が理解出来る筈はない。僕はね、無常な物へ囚われないように努力している。そして今後もしていきたいと思う。小説家としてね」

 裕はお茶を飲んだ。苦味を感じた。

「この手に広がった皺を見ても、言えるのかな」

 祥子は裕の目の前へ右手を伸ばした。祥子の指先は、皺が目立つ。夏菜子の水を弾くような皮膚が、裕の脳裡を瞬時に走り去る。そして、何度も走り去る。

「祥子さん。その話は止めよう」

「ごめんね、裕君。辛い思いをしたくなかったの。こんな若くて、素敵な旦那さんに出会えただけで幸せの筈なのに」

「過去に辛いことがあったの?」

「うん」

「もし良かったら、聞かせてくれないかな?」

 祥子は裕の手を強く握り、ゆっくりと話し始めた。それは、深海で閉ざされた箱の蓋を開けるように重々しかった。

「私が初めて好きと言う感情が芽生えたのは、高校三年生の夏だったわ。それが、好きと言う高尚な感情かは、今となっては分からない。ひどく昔の事だから。でも、おそらく好きと言う感情だったの。彼に会うまでは、男の人を見ても何も思わなかった。それまでは、男の子とは女の子の友達と同じように接し、話したり遊んだりして一緒に過ごしていたの。仲の良い友達は、『あの男の子の事が好き』『あの男の子と手を繋いだ』『あのアイドルグループの男の子が格好良いよね』などと盛んに話していたけれど、私には理解出来なかった。とても不安になり、母親に相談したら、『発育が遅れているのかしらねー』なんて、言われてうやむやにされた。多感な時期なのにね。
 でもね、高校三年の夏、初めて好きな人が出来たの。あの日は、入道雲が大きく成長している暑い日だったわ。私は夏休みでも毎日図書館に通い、受験勉強をしたり、小説などを読んでいたの。自宅では、気が散っちゃうからね。朝の十時頃に弁当を持って出掛けて、十五時位に帰宅する。同じような毎日だった。彼とは、図書館からの帰り道に出会った。自宅まで長い道のりだったから、木陰のベンチに座って、水筒の冷たいお茶を飲んでいたの。すると、彼は私の隣に座ってきた。そして、私の汗ばんだ額や頬、胸元やスカートから覗く足を見てくるの。でも何故か不快に思わなかった。彼の目がビー玉のように澄んでいて、吸い込まれそうだった。
『図書館で何を借りてきたの?』
 彼は私に問いかけた。私は何故、図書館に行っていることを知っているのかを尋ねたの。すると、
『いつもこの道ですれ違うから、祥子のことを探していたよ』
 と答えたの。それまで、男の子から気にかけて貰う経験がなく、彼の一言で心が揺らいでしまった。それから、帰宅するときに木陰のベンチで話をすることが日課になったの。彼は眉目秀麗で、学校でも人気がある男の子だった。私も彼の顔を見ると、心がダンスしていたわ。
 ベンチでの会話に慣れ親しんだある日、
『家に来ない? 君の好きな本があるよ』
 彼は言ったわ。私は彼に着いていった。男の子の家に行くことが、どういった意味を含むものかを、理解していなかった。いえ、思春期だったから性的な情報は多少入っていたけれど、その時は何故か忘れていたの。
 部屋に入ると、彼の目つきが変貌し、私の腕を握りしめたの。それも強く。獣のような彼の目に、私は恐怖して大声を上げたわ。だけれど、彼の家には、私と彼しか居なかった。彼の手が、私の制服に触れた。私は再度、大きな声を出したの。魂が張り裂けるような大声を。すると、彼は
『俺の部屋で、こうやって抱かれるのだから、悲鳴じゃなく、喜べよ。お前の醜い姿じゃ、男も知らずに死んでいくのだろうから』
 と言ったの。
 彼の一言は、裕君に出会う迄の私の人生を大きく変えることになったの。男女複数でテーマパークへ出掛けることがあった。近所のおばちゃんから、縁談をしなさいと言われ、男性と会ったこともあった。けれど、いつの時も彼の放った言葉が蘇り、私の行動を制限してしまう。ある意味、呪縛みたいなものかしら。でも、裕君と出会って私の呪縛は少しずつ解けていっている気がするの。そうね、何重にも結んだ固結びを解くように。裕君といると、自然になれる。
 だからね。裕君との関係が壊れることが怖いの」

 祥子の握る手が緩んだ。

「ありがとう、辛い過去を話してくれて。祥子さんの呪縛が解けるなら、僕の存在意義はあったのかも知れない」

「こんな、おばちゃんの話を真剣に聞いてくれてありがとう。親にも、友人にも、学校の先生にも言えずに、ずっと心の奥底で引っかかっていたこと」

「簡単に口に出せる話ではないよ。それに、祥子さんはおばちゃんではない。僕の妻だよ」

 二人は見つめ合い微笑んだ。裕は微笑むことが正しいとは思えなかったが、祥子の表情に釣られ、つい微笑んでしまった。

「ごめんなさい。話が長くなったわね。父さんが待っているから行きましょう」

「うん」

 二人は立ち上がり、和夫の荷物を持ち、タクシーで病院へと向かった。


第9章「後半」へ続く。




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