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興味の移ろいが激しい私の生き方

私は幼少期からずっと自己肯定感が低かった。それでも楽しいと笑う日もあるし、大切な人との縁を大切に毎日を生きている。だがふとした時に自信の無さや自己肯定感の低さから自己嫌悪に陥っては落胆することを数百万回も繰り返している。

今まで出会った恩師や友人は私の力を信じてくれるが、最後に口を揃えて「あんたに足りないのは自信」と言う。そんなことは自分が1番分かっている。でも自信の付け方なんて知らない。学ぶ場もなく基礎も応用もあったもんじゃない。そう思っていた。

自己肯定感が低い原因

そのひとつに「ひとつのことをやり遂げられない」ということがある(実は意気揚々と始めた"親知らずの親離れ“もまだ完結できていない)。
私はこれまでずっと、それは自分に能力がないからと思い込んでいた。継続は力なりという言葉の真逆を生きてしまう人間だとも。
誰かに相談しても、そんなこと普通だよ。誰にだってあるよ、と言われる。そういう優しい一言が有り難くもあり、逆に私を傷付けてもいた。普通なんだと思えば思うほどやっぱり違和感があって普通になれない自分を再認識してしまう。

例えば部活。私は小学校のクラブ活動から「やってました」と胸を張っていえるものがない。新体操にバスケ、卓球、ピアノ、書道、部活のマネージャー。どれをとっても、しっくりとした終わり方をしていない。すぐに飽きてしまったり続けることが耐えられない苦痛となって、それらしい理由をつけて辞めてしまったものばかり。

例えば人と話している時。話題の最中に別のことを思い出すと、そのことが気になって会話を楽しめない。ひどい時は話をすり替えてしまい話題は脱線。後で後悔することも多い。

例えば旅行の話を進めようとした時。行く予定のない場所の刺激が入ると行き先を変更したくてたまらなくなる。そのうちに旅行ではなく舞台を観に行きたいという刺激が入れば旅行どころではなくなり、舞台のチケットを調べ始める。


例えば面白いyoutubeを見ている時。ふいにnoteを書きたくなって途中でnoteを開く(今まさにこれ)。そして増えていく下書きの山・・・。


1週間前と今で、目指すものが変わっていることは日常茶飯事。1週間前は断捨離に目指め、その1週間後には落語に目覚めるなど振れ幅が自分でも追いつかない。

仕事においてもそうだ。バイトも、申込時と面接時でやりたい気分が変わっているので意欲がない者と見られがちで落ちまくる。飽きてしまい続けることも難しい。就職しても、配属部署で決められた業務をずっとやらねばならないことが、酸素の薄い部屋に閉じ込められているような苦痛になる。(仕事だから責任という二文字の為に食らいつくけれど)やっぱり勤続年数は少なめ。

ライターに興味を持ったかと思えば画家、カメラマン、動画クリエイター、、色々手を出してみては飽きて終わるの繰り返し。noteもそうなりそうな状況。

ここまで書いていて、自分でもワガママで自己中心的で子供じみていると思う。その道の専門家からしたらとても非常識で馬鹿にしているのかと怒られそうだ。

長所をうまく理解してくれる夫

だけど、私にはありがたいことに私の特性を理解して笑ってくれる夫がいる。夫は、「お。今日のブームはそこなのね」と面白がって私の衝動的な興味の移ろいを笑ってくれる。「あんたの能力を活かせる環境は放牧」といつも言っている。

なるほど放牧とはよく言ったもので、ある程度の枠の中で自由気ままに過ごせばそれでOKというもの。枠とは現実的に生活できる範囲のこと。経済面、物理的に可能な行動かどうか、人への迷惑が許される範囲かどうか、など。

ちなみに夫は私の支援のプロ。お風呂が沸いた時に旅行雑誌が机に置いてあろうものなら「お風呂の前に旅行雑誌が目に入ると、お風呂を忘れて平気で1時間以上も雑誌に没頭する」と予測をたてて私の目につかないよう未然に隠したりする。大正解すぎる対応。有り難い。

暗黒というテーマだった2019年

2019年は自分の中のテーマが「暗黒」だった。身体的、精神的に無理をした結果、悩みに悩んで仕事も退職した。私生活も全てが心の底から楽しめなかった。そうして「やっぱり自分は続かないんだ」と自分を責めて身も心もダウンした。

そんな時に「ええい始めてみよう!」と現実から目を背ける為に半ば衝動的に始めたものがnoteだった。今まで「ものを書くのは好きだけれど、それを発信することは自分は違うのではないか」とアレコレ理由をつけては文章を書くことから避けていた。「ものかきという趣味すらも続かないのか」となればいよいよ自分を支えるものが無くなってしまうという一種の恐怖でもあったからだ。

だが勇気を出して始めたnoteは、全く知らない人からスキを貰える。知人から、文章好きだよ、楽しみにしているよ、と言ってもらえる。そんないろんな人からのリアクションの一つ一つがとても嬉しくて自己肯定感が少しずつ落ち着いていった感覚があった。

その時に岡本太郎の本と出会った

タイミングとしか言いようがなかった。自然と手に取り気付いたら読んでいた。

気まぐれでも、何でもかまわない。ふと惹かれるものがあったら、計画性を考えないで、パッと、何でもいいから、自分のやりたいことに手を出してみるといい。  それでもし駄目なら──つまりつづかなかったらつづかなかったでいいんだ。いいと思うべきだ。  計画性なんていうことにこだわらず平気で捨ててみて、つまらなかったらやめればいい。(自分の中に毒を持て、本文より)

はっとした。自己肯定感の低さや自信の無さに嘆くことしかできなかった自分が、嘆くよりも必要だったものを岡本太郎は教えてくれた。これだ。私の衝動性がプラスに動いた瞬間だった。

捨てる勇気。続かないことも計画のうち

そういうモットーが私の中でストン、と降ってきた。私はこれから先も、きっと飽き性は直らないし、衝動的に動くことから逃れることは難しいと思う。今までの約20年間、周りに合わせて自分をコントロールし上手くいかず、もう充分自分の心も体も犠牲にした。失うものはない。

これからは自分自身と、そんな自分のことを面白いと笑って支えてくれる大切な人の為に生きたい。そのためにはどうしたら良いのだろうか。そう考えた時に、人生で初めて心の底から自信を持って言える「目標」というものが出来た。

目標について(備忘録として書き綴る)

興味の移ろいやすさがあるのが私。興味が出た時に衝動的に動いてしまうのが私。飽きるのも早くて中途半端かもしれないけれど、それだけいろいろな経験を積めるのが私の強み。

興味が出た時に、それが1日だろうが1ヶ月だろうが1年だろうが、興味が出てやりたいと思えたら、なんでもやってみること。そして飽きることを認めて捨てる勇気をもつこと。続かなくて良いから、やりたいと思った時に飽きるまで全力でやり抜くこと。

私は元々目標は必要だとは思わないし、目標が邪魔にもなったりすると思っている。性格に完璧主義な部分があると、目標があれば達成という結果が必要になってしまうから結果に縛られて苦しくなる。その逆で、目標がエネルギーとなり力を最大限に発揮できる人もいる。目標はあれば良いとは一概に言えないと思っているが、用法容量を守って正しく使っていくといいのかなと思う。

2020年は新たな自分に出会える年にしたい。これを続けていくことで結果的に“継続は力なり”が出来ていたらいいなあという本音を添えて。

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衝動的にだけれど確立された決意を、未来の自分がまた思い出せるように備忘録として残しておこうと思いました。とりとめのない文章をここまで読んでくださりありがとうございます。

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