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「ずるい自分軸」を読んで発掘された「我慢することが体質的にできない」という真実

え、ちょっと待って…。
もしかして、私が「他人軸」になった理由って「体質的に我慢ができない気質」だからだったからなのか…?

「我慢する」「押さえつけられる」ことが体質的にできなくて、でもそれでも生きる場所は社会しかなくて、その社会を生き延びていくために「他人軸」を身につけたんだとしたら…




こんにちは。はなです。
先日、Amazonで販売されたあそび屋だいさんの「ずるい自分軸」を読みました。1度読んで「わぁ♡素敵な本♡」と思い、昨日、2回目読んでみたら、とんでもない深い考察が始まり、今まで考えついたことも無い自分の「真髄」にたどり着いたので、その頭の中を飾ることなくそのまま書いてみたいと思います。


\あそび屋だいのずるい自分軸好評発売中!!!!/

この作品は「あそび屋だい」さんの第2作目。
第1作目の「遊ぶライフハック」も面白いので是非。




「ずるい」と言われる側の気持ち

私はどちらかと言うと「ずるい」と言われる側。

小学生の頃から、よく「ずるい」と言われてきた。

そして、
「ずるいと思うなら皆やればいいのになぁ」って思ってきた方。

そんな本の内容とは別の立ち位置、「ずるい側」の視点で感じたことを書いてみたいと思う。


第一章

言いたいことを自由に言って、
それなのにみんなから好かれている人。

好きなことで遊ぶように暮らしているのに
お金も稼いで楽しそうな人。

常識なんて見えていないかのように生きている人。

すぐ投げ出して逃げ出しているのに、
上手く生きている人。

そんな人たちがずるいと思っていました。

「ずるい自分軸」11ページ


私はこれを読んだ時、「ずるい」とは思わなかった。
(いや早速批判しているわけではない。笑)

「ずるい」とは思わず、「わぁーすごーい!私もそうなりたい~」と思った側だ。


なんで自分は「ずるい」と思わないのか?
他の人は「ずるい」と思うのに、私はそう思わない事が引っかかった。


そもそも、
「ずるい」っていう感情は、「ずるいなぁ♡もう♡」などとツンツンしながら冗談で言うことはあっても、本心で思ったことはない気がする。(後にそう思う理由が明確に浮き彫りになる)



第二章

「あの人ずるい。」
僕らがそう感じるのはどんなときなのか。

自分がやりたいことを我慢して、頑張って、努力してようやく評価されるのに、あの人は笑って遊んで結果を出して許されている。

大小はあれど、そういった状態ではないでしょうか。 そこには「いいなあ」という純粋な憧れとは別に、「私は我慢しているのに」という妬みが含まれています。 何も我慢していない状態なら、すごいなあと思ってもずるいと思うことはないはずです。

「ずるい自分軸」18ページ



そっか、私我慢してないのか。

我慢したり上から押さえつけられる事が極端に嫌いな私なので

我慢するのが嫌→“我慢すること”から全力で逃げてきた→我慢せず生きてきた→誰かをずるいと思う感情があまり無い

のだと思った。


自分がやりたかった事を他の誰かがやっていて、自分がそれを出来ていなかったときは、「先越されたっ!」とは思うけど、早くしなかった自分を責める方である。
その人を「ずるい」とは思わない。
やらなかった自分が悪い。その人は頑張ったのだ。
そう思う。

なんだか深い。面白い。



ここで少し余談ですが、 ずるいと言われている人たちは自分のやっていることを「ずるい」とは思っていません。

「ずるい自分軸」19ページ


そうなのよー!笑
「ずるい」って言われることはあるけど、人をずるいと思ったこともあまりないし(記憶にないだけかもしれないが)、自分を「ずるい奴」とも思わない。

ただ、周りから「ずるい」と言われるから、何がずるくて何がずるくないのかの境界線が未だによくわかっていない。

なんか「ずるい」と言われるから、やっちゃぁいけないことなんだと思いながら、でもこっそりやる…な感じ。


なんだろう、だんだん自分の思考の奥に向かっていってる感じがする。

すごい、この本、分析がすごすぎる。
なんで筆者は「ずるいと思う側」なのに、逆の立場のことがわかるんだ?笑

分析力と言語化が半端ない。



(ずるいと思わない)彼らの判断基準は常に「自分」でした。
社会的な常識や風潮、時代の流れなどはあくまでも「現象の一つ」として捉え、 代わりに「自分の欲求」や「感情」を通して判断しているようでした。
「世間とはこういうものだ」といった刷り込みを脱し、 世界を彼らなりに「自己解釈」していたのです。

「ずるい自分軸」20ページ



これを読んだ時の違和感がすごかった。
「ずるい」とは言われる側だけど、私はどちらかというと「人の目」を気にしてしまう方。

しかも「ずるい」と言われる方は、自由で成功していて誰からも評価されてキラキラした人のようなイメージなのに、私はそのタイプではない。

この違和感がすごかった。

なんで、「ずるい」と言われてきた側なのに堂々と生きていないのか?

周りの目を気にして、人に何か言われるのが気になって、1人で出かけたり、1人で行動するのが苦手になってしまっているのは何故か?

私の判断基準は「自分」ではなく「周り」なのはなぜか?
「社会的な常識や風潮、時代の流れ」は確かに興味はない。

(以前にレクチャーしてもらった時も別の方にそう言ってもらった。「就職氷河期にいたはずなのに時代背景のことを全く覚えていない、興味が無いから回答が100文字程度におさまっている。逆に自分の内面のことや思考の変化はよく覚えていて3000文字とかで返ってくる」と言ってもらって確かに世の中の動きには全く興味がなかった)


でも、
「世間はこういうものだ」という刷り込みを受け入れてはいたように思う。

でも、
「自分のやりたいこと」は抑えきれない。


なんというか、


思っていることとやっている事が違う
というかなんと言うか…。


…ん?
自分の本心を捻じ曲げて生きてきたのか…?

性格だけ話すと、どちらかというと1人で世界中まわってそうなイメージを持たれる。自由奔放で好奇心旺盛、やりたいと思ったらすぐやる方だし、やりたく無くなったら辞めるほう。世の中で「だめ」と言われることも、「別にいいんじゃないのー」と思う方。

でも、その割には実際の見た目は大人しいしあまり目立たない。

その理由が、随分明確に浮き彫りになった。


本来の性格(自由奔放で好きにやりたい自分)でいると不都合が多かったため(周りに受け入れられない)、

自分なりに「本来の自分」を捻じ曲げて、
「私は本来の性格は大人しくて常識のある優しい普通な人」と自分で自分を思い込ませることで、社会で生きていくことを選んだのだと思う。

子供ながらに「社会でみんなと触れ合いながら生きたい」欲が強かったため(1人は淋しい)、「本来の自分」よりも「社会でみんなと楽しく平和に生きる」ことを選んだ私なりの生き残り戦略が「他人軸」だったんだと、腑に落ちた。(なんだなんだ?めっちゃ深いぞこれ…)



小学生の頃、「はなだけ、ずるい!」とよく言われて悲しかった。

「はなだけ車で来てずるい!」とか
「はなだけ先生に褒められてズルい!」とか、
「はなだけ〇〇もらってずるい!」とか
「はなだけ〇〇君と喋ってずるい」とか
「はなだけ持っててズルい!」とか。

「え、やりかったらやればいいのに」とずっと思ってた。嫌味とかではなく、みんな「やりたい」と思っているのにやらない理由が本当にわからなかった。


でも、「ずるい」と言われる事は私にとっては悲しいことなので、ずるいと言われないようにコソコソやっていた(「やらない」という選択肢が私の中になかった)。

そしてバレて周りに「ずるい」と言われる。
みんな怖い。

何がずるくなくて、何がずるいのかの
基準がわからなかった。

だから「ずるい」と言われたことは、やったらいけないことなんだな、と「ずるいと言われたこと」基準で物事を判断してきたように思う。


はいっ!ここもポイント!
この時「ずるいと言われたこと」をやってはいけないこと基準に認定していたため、誰か一人に「ずるい」と言われた時点で、それはやってはいけないことと思ってしまっていた。でもよく考えると、その時「ずるい」と言ったのは、その方だけの価値観。言わば「他人」の一言が「私の生きる基準」になってしまっていた事になる。

またやっかいなことに、ずるいと言われたのは小学生の頃。つまり、「小学生の女の子1人の意見」を基準に30年以上生きていたことになる。

ここ、重要。
小さな子供の価値観を基準として30代の大人が生きていたことになるわけだ。

ぎょえ~~である。


でもそれで生きてきた。

自分の「基準」は間違っていて、自分の思った通りにやることは間違っていて、私の感覚は人とは違っていて、私の判断は、基本的に間違っている=自分の意見や判断基準より他人の意見や判断基準の方が正しい=他人軸の誕生

(すごい。。他人軸の歴史が浮き彫りになった)



だから「周り」を気にしてたのかー。

「周りの意見」で生きた方が社会を生きやすかったから。


つまり、
「ずるい」と言われていた頃は自分の思った通りに生きていたけれど、あまりに周りからの反対意見が多かったりして不具合が生じたため、「自分の意見」を封印して物事を考えるようになったわけか。


自分の意見=わがままだよ
自分の意見=それよりこうして方がプラスになるよ
自分の意見=私は本当はそうは思っていないんだよ(と思い込ませて周りの意見を無理やり優先する)

我慢することや押さえつけられることが(自分でも気づいていないが)体質的にできなかったため、「自分の意見」を我慢するという思考はなく(できない)、「ふと無意識に思ってしまう自分の意見は、間違っていることが多いから、自分の意見よりも周りの意見に従った方が自分が望む結果になる(平和主義・みんなに嫌われたくないが有線)」と思い込むことで、我慢の自覚はないけれど、結果的に傍から見ると「我慢している」ことと同じようになるように仕向けた…といった感じだろうか。


すごい。。。
みんなは、自分の欲求を知った上で我慢している(仮説)
けど、私は「自分の欲求を知ると我慢できない」から、「自分の欲求を知る」ことそのものをやめないと生きていけなかったんだな。。


それに気づいた時、
過去のいろんな事が蘇って笑った。

あの時のアレも、みんなは我慢してたのかーとか。
「なんでみんなやらないんだろう?」と思っていたのは、みんな我慢してたんだなーとか。

逆に私は「我慢できないタイプ」なのかーとか。

「タイプ」どころではない。
無意識レベル、細胞レベルで「我慢できない体質」であり、やりたいことはやらなきゃ気が済まない。

だから、どうしても我慢しなきゃいけない時は、思考をこねくり回して「我慢している」のではなく、「自分がやりたくてやってる」と思えるように自分にとってのメリットをひねくり出して無理やり繋げていたように思う。


なんか…すごい。
これ、なんか真髄が見えてきた。。(興奮)


これまでの人生、傍から見ると我慢の連続だったはずなのに、それを難なくこなして来たのは「我慢を我慢と認めない思考=自分を上から押さえ付けない思考」で生きてきたのか…。

だって「我慢できない気質」だから。

我慢したくても我慢できないから、我慢せず物事を済ませるには「我慢している」のではなく、「こんなメリットがあるよー」って自分を励まし?て、生きてきたように思う。それが今の「最強のポジティブ思考」に繋がってるのか…。

なんだこれ。
めっちゃ深い。。



え、まだ第2章だよ。笑

とりあえず書評前編はここまでにしよう。
後編、また書きます。


\あそび屋だいのずるい自分軸好評発売中!!!!/

この作品は「あそび屋だい」さんの第2作目。
第1作目の「遊ぶライフハック」も面白いので是非。


後編、書きました。


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