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ファンレターという名の初めてのラブレター

24年生きてきて、初めて「推し」という存在にファンレターを出した。
もともと幼い頃から手紙を頻繁に出す習慣は身に付いており、手紙を書いたり、レターセットやシール、切手を集めるのも眺めるのも好きだった。

しかし、手紙に自らの文字で相手への好意を表し渡すという行為をしたことはなかった。持ち前の度胸で告白は自らの口で伝える、なぜかそれを貫いてきた。推しという存在は今までもいたが、ファンレターを出す気にはならなかった。どうせ読まれないだろう、出すまでの手順がわからない、などと理由をつけていたが、結局そこまで好きじゃなかったのだろう。
そんな私が先日、初めてファンレターを送ったのだ。

送った相手は私と同じ歳のスポーツ選手である。今までインスタのDMやストーリーでのメンションで推しに限らず、自分の好きな選手には「今日の試合のここがすごかった」「初めての記録おめでとうございます」のような簡単なメッセージは伝えていた。
だが、今回の彼は違う。彼がスポーツ選手として全国区になった時から、応援してきて、最初こそ彼のお顔が私のドストライクに好みでファンになったが、実際に活躍の場を見にいくと彼がどんな振る舞いを普段からしているのかやどれだけの思いを抱いて競技に向き合っているのかが伝わってきた。この頃から、彼への「がんばれ」という思いは「尊敬」へと変わってきていた。

そんな中で決定的なことが起きた。彼の選手になるまでのこれまでの歩みを書いた小さな記事を読んだのだ。これまで、選手になるような人は学校の中でも人気者で、家族や周囲の人間から期待され、全国区の人気と知名度を誇ってきたのだとばかり思っていた。しかし彼はその反対で、夢を叶えるまでの歩みは簡単なものではなく、競技をやめようとまで考えようとしたこともあったと。その競技だけをしてきたわけではないのだと。完璧な人気者、という偶像が崩れた。同じ日本で同じ学年に生まれた普通の男の子だった彼が今に至るまでに、普通の子じゃできないような努力を積み重ねてきたのだと知った。
それから、彼を見るたび彼の行動の1つ1つにささやかな優しさや心配りがあること、常に人に見られる立場でのプレッシャーを感じているやも知れぬ彼が、弱音を絶対にファンの前で吐かないこと、人として惹かれ尊敬するようになった。

これまで、「推す」という行為に対して私は否定的だった。推される側の人間はもらってばっかりでずるい。こちらは時間とお金と手間ばかり浪費して何もお返しはもらえないじゃないか、と思っていた。
しかし、彼に出会ってから「見返りはいらないから、貴方がどれだけ素敵な人か、どれだけ尊敬に値する人なのかを知って欲しい。否、知らなくても良い。手紙を出すファンがいる、という事実だけでもこの世界に存在すれば良い」と思うようになった。まさに無償の愛だと私は思う。

見返りなんかいらないのだ。私が好きで手紙に貴方から頂いた沢山の力とときめき、何より「人を応援する尊さを知った」ことをしたためただけ。読んでくれなくても良い。貴方を見ている人はいるし、貴方のこれからの幸せと成功を願ってやまない人間がいる事実は紛うことなく存在している。もはやその存在証明として手紙があれば良い、そんな思いを生まれて初めて抱くことができた。

「人間として惹かれ、好きだ」これほどまでの愛を他人に抱く尊さを教えてくれた彼に、もはやラブレターとでも言えるようなファンレターを送った。人生で初めて、文字にして他人への大きな思いを伝えた。
熱し易く冷め易い、損得勘定で動くガメツイ女が何も求めず行動に移した。自分でも驚いている。私にこんな人間らしい温かみが残っていたのか、と。

他人への価値観をひっくり返した彼へのラブレターは届いたのかはわからない。届いていなくても、読まれていなくても良い。ただ、こんな照れ臭くて、でも心にくすぐったさを覚えるような細やかな楽しさを教えてくれて、本当にありがとう。どうか、これからも貴方のことを応援させてください。

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