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材木屋でアーティストだったおじいちゃん
父親が北九州の出身で、おじいちゃん、おばあちゃん、父方の兄弟一同、福岡に住んでいた。毎年、夏休みは一緒に過ごすのが習わしだった。
おじいちゃんは材木屋を営んでいて、クジャクを一羽飼っていた。時折、ぎゃーという奇声を発するその鳥が私はあまり好きではなかった。
そのクジャクの大きな飼育小屋はおじいちゃんが作ったようで、みんなが住んでいた木造の3階建て住居もおじいちゃんの手塩にかけられたものだったようだ。
家族が増える度に継ぎ足し、継ぎ足しで部屋が作られ、よく言えばサグラダファミリア的な、または、どこが正面の入り口なんだかよく分からない不思議な建物だった。
おじいちゃんとおばあちゃんは、かつて炭鉱が行われていた小さな山をもっていて、夏の間はよくそこで過ごしていた。
そこは、二人の桃源郷のような場所で、木造建ての住居以外にオレンジ色の鳥居や神社の宝物殿のような木造建築物があった。すべて、おじいちゃんが作った。
宝物殿と言っても、お宝はおじいちゃん渾身の木彫りの作品群で、そこらじゅう所狭しと並んでいた。おじいちゃんは隠れアーティストだったのだ。
おじいちゃんは背が高くひょろっとしていて、口数が少なく、「そげんやね」という口癖以外は何か積極的に話すようなタイプの人ではなかった。
私が小学生の4、5学年の頃、夏休みの最終週をそちらの山で過ごすことになった。毎日のように宝物殿にこもり、所蔵書の火の鳥やブラックジャックを読み漁っていた。
そんな毎日だったから、当然のごとく夏休みの工作にも一切手をつけていなかった。
東京に戻る2日前頃、泣きじゃくりながら「工作ができてない。おじいちゃん、どうしよう」
当時、おじいちゃんにあまり懐いていなかった私がどうして、おじいちゃんを頼ったのか。きっと藁にでもつかむ思いだったのだろう。
そして、おじいちゃんが短く「まかしちゃり(まかしとき)」と小さなかすれ声でボソッと言ったことを今でも鮮明に覚えている。
そして、おじいちゃんは宝物殿に丸一日こもった。でてきた時には、少し疲れた様子だが高揚感あふれる表情で私に「ほれ、これ工作」と高さ20 cmほどの木彫りを渡してくれた。
それは、まるで闘鶏にでも出れるかのような、隆々とした筋肉をもった鶏の彫り物で、羽のディテールも見事だった。
よく覚えていないが、私は、それをそのまま学校に提出したんだと思う。
後日、母親宛に学校から連絡がきたのは知っているが、その内容は知らされなかった。
その後、私へのお咎めもなく、おじいちゃんのアーティスト魂も傷つけられることはなかった。
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