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何かに決めてもらいたいということ

違う行き方を想像できてしまう。可能性。希望。

かといって答えが分かっているわけではない。つまり、不安。

神様に決めてもらうというのは現代人にはあまり人気がない。神様に決めてもらうぐらいなら算数の方がいい。

実際、かなり簡単な計算で、将来設計が可能な感じにはなっている。

それが可能となっているのも、私たちの祖先たちが地道に交換システムを発展させてきてくれたおかげ。

コンビニが徒歩圏内にあって当面生きていくのに困らない程度のモノやサービスを提供してくれる。

お金だって働いたら手に入るようになっている。

でも特に「お金を入手するための手段は簡単そうに見えてそうでもない」というように、現行の交換システムにも弱点はある。理想は雇用100%、失業率ゼロ。だけどともかく交換のために何かを差し出せ!というその「何か」が労働力しかない、というのは大きな問題点だ。

そもそも労働力といったってなんでその作業がその値段なんだ?ってのがちゃんと計算されているようでそうでもない。

交換の本源に戻って考え直してみる。

交換するのは、衣食住に必要なものを調達するため。

現にお互いが手に持っているもの同士を交換するなら話は簡単だけど、交換って面倒だし、本当なら各自交換しなくても生きていたいところ。とはいえそんなことが過不足なく安定的に遂行できるケースはまれで、やっぱり分業になっていく。

というのがかなり粗いけど今私たちが様々なモノを交換して生活を成り立たせるようになっている経緯。

しかし。。。本源にはまだ戻り切れていない。

「本当は交換なんてしないで済む方がカンタン」でもなかなか全員が各自自給自足するのは”難しい”。

どれぐらい難しいのか??

多分人類史上、実践で試してみたことはないと思う。

独りぼっちでは生きられないようになっているから。

「独りぼっちで生きられない」というのは、根性がないとか体力がないとかいうことではない。シンプルに「産まれたらそこに誰かがいる」ということ。

では、理論上の計算では??私も専門家じゃないからはっきりとしたことは言えないけれど、相当難しいと思う。

個人が一生とか一日に必要とするカロリーや栄養素から計算して、必要な土地の大きさであるとか、最低必要と考えられる装備とか、、、全部自給自足なんてほぼ不可能と思える。実際はどうなのか?は分からないけれど、現時点でもっている技術力で相当過酷な土地でもいろんな農作物が作れる、、、としても。。

もうこの「理論上の計算だけ試しに、、」、って時点で、”思い込み”にもいろんな制限がかかる。それぐらいわたしたちは独りぼっちじゃないんですよね。。。

なら、交換の本源って、、、

人と人との関係づくり

なんでは?

しかも、もう産まれた時点で独りぼっちではない、という前提で。

つまり、そりゃ不幸な例で産み捨てなんてことも起こるわけだけど、また、独居で孤独死なんてこともあるのだけれど、産み捨てられて誰にも見つけられなければ死んじゃうし、孤独死するまではわずかではあっても助かるチャンスはないわけではない、というぐらい、人間は「社会」という名の人とのつながりの中で産まれて生きてそして死んでいく。

そこまで、日常従事している様々な交換(モノやサービスから挨拶まで)の本源に戻ってみると、見えてくるのは、一人一人が、かなり一生懸命色々と分析してみたところで、「あーすればこーなる」みたいな原因結果予測なんて不可能だということ。だって、そのように示された原因結果予測って、どんだけ頑張って関係性を考慮に入れたところで、いや、入れれば入れるほど、現実から遠ざかる。

現実。

現に動き続けている、感じ続けている、考え続けている人間と人間との関係。

違う行き方を探って、上手くいきそうかどうか?をチェックするというのなら、勿論合理性も実証性も大事だけれど、変数(独立、従属)間の関係ではなく、それは、人とのコミュニケーションを通して確認していくしかないのでは?

いろんなケースがあるけれど、相手が人間なら、とりあえず意見交換・情報交換はしようとするよね?お互い十分に実証検証されたモデルやその他ツールを持っているとしても。まさか各自のモデルとかが拠って立つ計算とか観察結果が、勝手に物事を決めてくれるなんて思わないよね?

ところが昨今の様子を見るとそうでもないらしい。

何処かに何か、「誰が見ても正しいモノ・コト」なんてものを決めてくれるものがあると信じ切っているようなのだ。

おそらく自覚的にそのような「運命を何かに丸投げ」みたいな無責任な態度をとっていると感じている人はほとんどいないだろう。でも、自分たちがもつ、神様でも算数でも証拠でも、何でもいいけど、「よく分からないモノ・コトについて決めてもらいたいって思ってしまう弱さ」に気付いていない、という時点で、既に傍若無人。少なくとも私の辞書でいうところの謙虚さは持ち合わせていないかどっかに置き忘れてきていると見える。

「何かに決めてもらう」だと分かりにくいかな?

じゃあこう訊いてみますか。

「日々どんな些細なことでも予想予測を一切立てずにありとあらゆるモノ・コトに、あるがまま、目の前に現れるまま、都度対応することで生きていける自信ありますか?」

予想や予測はしっかりしたものでなくたって立てている。冒頭に「違う行き方が見えてしまう」と言った通り。これに避けがたく付きまとう不安への対応が予想や予測で、誰しもが一切立てずになんて生きていない。意識しようがしまいが完全に止めてしまうことは不可能。だからこそ”弱さ”なんです。

男前の理論や考え方に染まった人間はこう言われてもなお「克服しちゃる!」と考える。

ご立派でその意志は尊重しますが、できないものはできないと認めることも強さです。

さて、ではその予想や予測を立てずにはおれない弱さ。これを明確に認識できないことの問題点とは?

自らの限界がよく分からない。

これって大問題だと思うんです。

間違わないでくださいね。ここでいう限界は勝手に人間が設定しちゃうようなものではない。人間として生まれ落ちてしまった以上絶対に超えられない限界。例えば永遠には生きられない、というのと同じ。

何故わざわざ超えられないと決まっているものについて知らなければならないのか?

放っておいてもおかなくても人間は死ぬ。だからって、誰がどんな死に方したって構わないか?というとそうでもない。まあそれでも死の場合は本人死んじゃったらそれまでなんで、生きている者同士の関係よりは、どっちでもいい。

ただ理屈は同じことで、「どーせXXXなら」ってのは自由気ままに許されることではない。

「許されない」というか、、、、「できない」のよね。実際のところ。

超えられないって言われてもなお別の行き方は探ってしまう。「どーせ」なんて本気で信じちゃいない。

でも、限界を正確には認識できないのも、うすうす無理って分かってたって超えたいと思ってしまうのも、”弱さ”だと思うのと思わないのとでは雲泥の差が出てしまう。

思わない以上他人にも超えろ!と言い続けるだろう。

思えれば、自分は超えようとし続けたとしても、他人には強制はしない。だって不可能なことって分かっているから。これは安っぽい憐れみや卑下ではない。真のやさしさ。何よりも自分自身が超えられない限界があると知っているのだから。

もっと言えば、弱さを弁えた人は、他者が同じく弱さを抱えているように見えるので、無下には、見殺さない。みんなを救えるわけではないのだし、結果として見殺しちゃうんだろうけれど。。。

弱さに向き合える強さって本当に大事なんです。

だから他力本願もある。

念ずるのです。

まあとりあえず、今はそこまで必要のない人々を、必要のない状態のままで念じたくなっちゃうようにさせる。難題ではあるけれども、これは決して超えられないような限界ではないと思うのです。

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