ちょっとの差

これが気になるようで気にならない。

気にならないようで気になる。。。

びみょーな意地悪の源。

それほどびみょーではないわりと明らかな源もあって、それは「明らかにこっちの方が”いいもん”」。ちょっと意地悪したって許されると思えるぐらいに。無理矢理徒党組んで(多数派でもって)作り上げる場合もあるけれど、ともかくこの「自分らの方が明らかに”いいもん”」が無ければ意地悪な行動には出ない。というか、、、。これがないとそもそも”意地悪く”ならない。

意識してなくても、意地悪な行動に出てくる人々は、自分らの方が善で意地悪されている方は悪だと思っている。意識してない善/悪??

善だ悪だは意識していないけれども、ちくっと山椒のように効いているのが、似ているようで似ていない、似てないようで似ている。このびみょーなるスパイス。これがあるから意地悪さんは地上からいなくならない。。。

ところで。

外国人は謝らないって言うけど、私の感覚では、謝らないのは日本人。

外国人というか、英語しか分かんないんだけども、確かに謝るかどうか?なんて頓着していないところはある。謝りたくなるぐらい「何かがいけない」ってことが分かっているんなら、それ説明して、今後どうするのかをこれまたわかりやすく説明して、ってことなんだろう。

これは他者からそういう無言のプレッシャーを感じるともいえるし、単純に、正確な事実認識とか、それに基づいた善後策とかを含めないと、あんまり意味あるものとして聞いてもらえないだろうなーということで、謝罪口調であるとか、赦免を乞うだけの内容は自発的に極力避けようとしているともいえる。

謝罪の文言なんて言わないかもしれないけれど、実質そんなん言わなくても済む感じ。(ちなみに意地悪がないか?っていうとそういうわけでは全くありません。)

翻って日本人(語)はというと。。。

まあ挨拶ですからね。。。すみません。とかごめんくださいとか。。。

入口みたいなもん?真面目に善後策まで説明するとしても。まずは頭を下げると。。。

悪いことではないと思うんだけれども、弱点は、その後の中身があってもなくてもどっちでもよくなっちゃうことかな。。。あたかももう事前に全てが関係者間で決着付いているかのような感じとか。だからこそ、そういうのに腹立つことだって頻繁に起こるんですけども。。。

なんでそんなことになるのかって?

弱いからよ。人の心って。

だから本当はカタチは決め過ぎない方がいいの。

まず本当に何について申し訳ないと思っているのか考えて、それを説明させる方が個人個人の心の成長を促すなら効果的。(それだけじゃだめだけどね。昨今のまあまあ頭の良さげな人々見てれば分かるとおりで。。。)

とにかくまずはカタチだけでも謝らせるだけであったとしても、その「謝る」という感覚を個人個人が自分なりに噛みしめて内部化するように導いていかないと、結局「謝りゃいいんでしょ」になってしまう。(「客観分析っぽく言えばいいんでしょ?」とかももはやそんなカタチ(免罪符)の一つになってしまっているね。。。)

基本的には誰だって謝らなければならないような事態には陥りたくないもの。

そうはいったって結構しょっちゅう「やっちまった」とか「ややっ!これはちょっとマズいかも?」みたいなことは起こる。

もっと面倒なのが、頭では「いけないこと」と解っているはずなのに「繰り返しやっちまう」感じのやつ。。。

明らかに「自分が悪い」と感じられちゃうから。。。

これとどう付き合っていくか?ってすんごいミクロに感じられるけれど、めちゃ大事なんです。

しかし。。。

経験積んでなきゃいけないはずの大人たちがそうでもないもんで。。。

ついつい子ども達に「謝らせる」ような場面でも、目的が曖昧になってしまう。

「謝ればいいってもんじゃないの!」って結構誰でも言ったり言われたりしたんじゃないでしょうか?

これ。。。大事ではあるんだけれども。。。「じゃあ大事なものって何?」ってのがはっきり理解されていない。

理屈ではないんです。色々説明はするだろうけど。。。覚えてもらうのは「自分が悪い」ってホントイヤって感覚が第一。「もうしません」って言葉に、「『自分が悪い』って事態は本当に嫌だ!」が漂っているのが感じられると一番分かりやすい。でも、そんなのあんまり分かんない(謝らせている方がね)。ではどうするか?ここがとっても大事。

信用するんです。

「きっと嫌だと思っているはず。『自分が悪い』って感覚とかそう感じさせられている時間。。。」

よく子育てって親も学ぶこと多いって言うじゃないですか。そんな感じです。

「あー。ホント。イヤな感じよね。。。理屈で考えれば考えるほど『自分が悪い』って感じさせられるの。。。(でも一応本件に関しては考えさせる!)」

そうやって一方的ではなくて、親子双方で”共感”すると。

なかなかね。。。

大人同士ではそういう関係にはなりにくい。

お互い成長した者同士のプライドもあり、それを慮るのもマナーだし。。。

結局大人になっちゃえばそれぞれが内心でどう感じるか?外から見た目では分からない。というか分かってたとしてもあんまり深いところは詮索しない。みんな「すみません」ぐらいは言うしね。。。

そーこーしている内にどんどん上手くなる多数派工作。「絶対自分らの方が正しい」といえるシチュエーション探し・作り。。。専ら感じ悪い「自分が悪い」は忘れ去られるのみ。。。あたかもこんな良識的なボク・ワタシに「アンタ”こそが”悪い」って言われるようなことなんてあるわけないんじゃないか?って信じちゃってる感じの人々も。。。

いくら忘れ去られていようとも、「悪いの自分」って嫌なもんは嫌。

っちゅーことはもう永続的なわけさ。そういう「悪いの自分」逃れのための”工作”って。。。

めちゃ微妙よね。だから。。。

似た者同士は多数派作りの大切なリソースだからそうそうアタックは仕掛けない。

でも。。。気にはなる。似た感じのもの。。。

似てるけどなんか違うんじゃないの???ってのが格好のターゲットになりやすい。。。

ある程度距離があってすぐに殴り合いにならないぐらいってのもいい。SNSなんて最高。

腕っぷしだけ考えてもある程度差はあった方がいい。。勿論相手に反撃のエナジーが感じられないって方に。

まあそんな感じです。ニッポンの何とも言えないComplicatedな空気って。。。えれー工夫凝らしてるのは事実なんだけれども。。。無駄に複雑?

ふと俯瞰してみたら自分達でも笑えちゃうぐらい。

でも。。。

そういった俯瞰で笑えるような体験できるような人々だって、結局忘れちゃっている。複雑にしてしまっている原因。「自分が悪い」って感覚って本当は誰も逃れられないってこと。逃げられないのに逃げられたことにしようとかするから複雑になる。

「失敗しない人間はいない」ってことぐらいならみんな知っている。

でもそういうことじゃないんです。

人間って不確定情報で日々というか瞬間瞬間を生きていかなきゃならないから、単純に何かを認識するにも、うまくいく/いかないってのはどうやったって避けられない。だからうまくいきそうな方は”良い”と感じるし、逆は”良くない”と感じる。いや。”良くない”ようなもんが”ある”と感じられる機会はかなりマレ。後に残るのは常にうまくいった方だから。つまり、素朴に”そこに何かあるな”と認識し続けていることが、実は”良い方””良い方”、、、って判断を積み重ねているんだってことに、であるからして、うまくいかなかった”悪い方”だって山ほど重ねているんだってことに、ほとんど気付くことがない。

これはどんなに天才的に計算が速かろうが、注意深くて記憶力も確かであろうがコントロールはできないこと。コントロールっていうよりも、そういう不確定要素について諸般の理由を付けて「意味無いこと」としたり、単純にきれいさっぱり忘れ去っちゃえる人々が、何というか、、、ロール・モデルっぽくなっちゃっている感じ。

やっぱり夢なんですよね。「どっちか分かんない」じゃない世界って。そういう風に世界を描いてくれる人々に私たちは憧れる。そうとは気付かずに。。。

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人間の考え方の歴史の中でも、いくつか、「ここさえクリアしたことになれば」というのがあって、それを本当にクリアしちゃったことにできちゃったがために飛躍的に世の中が変わったということがある。

一つにお金。特に利子の考え方。お金貸す方は、貸し倒れの可能性もあるわけだから、貸す時点において、借り手に利子付きで返してくれるよう要求できるか?つまり、貸し倒れは”ありえる損失”として否定し難いけど、貸し倒れなかったら元金プラス利子が得られるのが正当といえるか?今となっては当たり前になっているお金の現在価値(期間利益)の計算も、そういう計算にしていいのかどうか?についてはしばらく論争があった。でもクリアされたことにしちゃったから、世の中こんな感じ。継続的な(コントロールされた?)公的債務膨張で経済が回っている。経済的財・サービスの生産・分配の仕組みはもっぱら資本主義的分業システムが採用されている。

おカネ関連では、等価交換の概念もある。お金の価値で表示されれば元がリンゴだろうがPCであろうがお掃除サービスであろうが等価交換できる。そうなると世の中はいろんな財・サービスに値札が付けられて取引(経済学上のマーケットを介した交換)を通じて流動可能になる。おカネすげぇ~。

おカネ関連は質(Quality)/量(Quantity)でいけば、量の扱い方に関することがメインなんだけれど、でも、利子のお話で論争が長く続いていた通りで、人間色々ネゴる時には、質のお話をまとめるのが大変。そう。結局良い/悪いを決めなきゃなんない。え?量?そうね。。。どちらかというと、”大”とか”多”の方が良い場合が多いけど、必ずしもそうではないじゃない?つまり、量を示しただけでは勝負はつかなくて、必ず付帯条件を見ないといけない。というか、付帯条件の方が先で、それを睨みながら勝てる(質的に”良い”を勝ち取れる)ように量をはじき出す(数式を当てはめる)。やっぱり面倒なのは質を巡るネゴ。これが決まればあっという間に数式が計算してくれる。

21世紀の現在、私たちが何気なく営んでいる生活で、質の問題ってどうやってケリがつけられているのか?思い切ったんですねー。「良い/悪いなんて関係ない!(量がきっと決めてくれる)」ということにしちゃったんです。質だって客観的に定義できるもの。つまり結局のところいつでもどこでもどんな時でも「そのようにある」ものが組み合わさったもので、「良い/悪い」なんて関係ない。え?そんなもん認めてない???

多分誰一人として明文化して認めてなんていないでしょう。

一人一人の実践。振る舞いがそうと決めている。

義務教育だからということで小中学校に通って(通わせて)、(高校大学等経路は様々なれど)卒業したらとりあえず働くのが第一選択肢。父ちゃんも母ちゃんも、祖父ちゃんも祖母ちゃんも働いてたなー。どんな仕事していくらもらってたから家族4、5人?一族?が食えてたのか?はよく分かんないんだけど。。。
働き口に恵まれてお給料もらうようになっても、別に、お給料の額と自分や家族が生存するのに必要最低限な額とがバランスしているのかどうか?なんとなくイメージはするだろうけど、細密に計算してみている人の方が少ないはず。生存に必要なカロリーから計算なんっていったらさらにやっている人は少なかろう(いないとはいえないけど)。
国やら国連機関やら、何某研究所やら、フリーで活動している研究者やら、、、きっといろんな計算はしている。とはいえ、国にしたってどういうふうにそうした計算を活用しているか?は様々。

ということは。

結局今の高度価値交換(つまりは様々なものの量的・質的価値を数値で管理して交換可能としている)システムを支えているのは私たち一人一人の数量感覚とか質的価値とかを結構複雑にミックスさせたってことになる。

「そ、そんな乱暴な」って思うかもしれないけれど、そうでもないんですよ。一人一人の勘って色々違いますから。計算している人もいっぱいいますし。

焦点はでも、やっぱり計算している方の人ですよね。エライ!

こともないんですわしかしこれが。。。。

どちらかというとそっち方面の人々の責任が重い。「良い/悪いはきっと量が決めてくれる」をここまで普及させたことに関する。

真っ先に来るのは、「良い/悪い」の判断をめんどっちぃって思っちゃったところ。

こりゃいかん。

何がいかんって、めんどっちぃって言うだけならまだしも、自分らだって「良い/悪い」の判断はいついかなる時も決してストップさせてないってことを見過ごしてしまったこと。

間違えないでくださいね。これは失敗/成功とか、善行/悪行とかの良い/悪いの判断ではないので。

具体例を挙げるなら、今現に「この文字が読める」とか、目の前に卵のL・M玉があったら、Lの方がデカいと判るとか、お腹空いているってことが判る・言えるとか。

判別或は認識できる/できない」の内、「ほぼ問題なくできる」の方が圧倒的に多いんだけども、こっちが”良い”方。なんで?いや。単純に認識・判別に成功したという意味で。つまり、私たちって当たり前に判別や認識をしているようで、そこに至るまでに結構失敗もしているんです。ただ認識や判別に失敗しているってことは、、、、。それって認識・判別できるわけないですよね?まあそれぐらい”悪い”という感じです。でもこの認識されない”悪い”がないと認識成功としての”良い”もない。

ここで本当は馬鹿にできないんだけどほとんど気付かれない倒錯が起きる。


何かが「あるか/ないか」ってめっちゃ明白なことだと思いません?

お腹空いたって感覚が「あるか/ないか」とか、テーブルの上にリンゴが1個でもあれば「ある」で、0個なら「ない」。

ところが、論理学や記号論とかの分析が明らかにしている通り、記号を用いて表現する「ある/なし」って、実は「なし」の方を”直接”表現できていない。厳密にいうなら「なし」は「ある」の反対ってことになっている。最もシンプル、なのでより”直接的”、と思えるのが数字の0(かな?他に集合の”空”とか?)。

つまり、私たちが日常的に思っている「ある/ない」って、ほぼ「認識或は判別できる/できない」のこと。

この微妙な倒錯(混同?)が何故馬鹿にできないのか?というと、厳密な「ある/ない」って数量の感覚の源で、実際何かが起これば「ある」で起こらなければ「ない」で済む世界。「ある」がひたすら積み重なって量となる。「ない」ならどこまでも「ない」。

「認識(判別)できる/できない」の方はすでに質(クォリティ)としての、”良い”方/”悪い”方。つまり、質の領域のお話の中で私たちは暮らしているということ。基本的には全て「ある」こと。だけども認識(判別)できるか?できるといっていいか?は100%確実には決まっていない。特に認識できないものってのは「ある」はずなんだけども、認識できないってことで、「ない」扱いしてしまいがち。でも私たちの接する現実にはあって、きっと何らかの影響は及ぼしているはず。

本当は数量の世界の「ある/なし」のようなはっきりした区分けでもって世の中の色々をマネージしたいところなんだけれども、私たちって曖昧な方の”(認識できると言って)良い”(かもしれない)方/”(できない・できてないという意味で)悪い”(かもしれない)方を使いながらえっちらおっちらネゴりつつ検証していくしかないということ。だって、私たちが「ある」って認識した時点でそれは既に記号の世界のお話で、そもそも「ある」だなんて言葉が使えているということが、質的に”良い”方が積み重なった証拠だから。私たちが普段言っている「ない」って厳密に言えば、「あるんだけれど何らかの事情で認識・判別できていない」ということ。

もっと端的に言えば、数字を使ったり、数式を使ったりするってことは、とあるものが「ある”かもしれないだけ”」なのに、あたかも「”絶対あるもの”として扱ってもいい」ってことにしている、ということ。

何が問題なの?

数字で表されたもの”だけ”が絶対的にあるもの誤解しがちになるから。

また、「ある」が「認識できるもの」で置き換えられる傾向があるということは、そう、一人一人の「見たいもの」に、「あるか/ないか」が影響を受けるということ。事実そうなっているでしょ?既に。

エヴィデンス出せ!Evidence-basedという名の「実際にあったこと」探し(捏造も十分可能)。客観的評価基準による計測(本当はコンテキスト次第で「どこが”客観的”なんだか」という代物)。

まあ複雑なお話をまとめるための有効なツールではある。

でも。

そもそものお話に戻りましょう。

私たちの数量的感覚ってめっちゃざっくりでしょ?

勿論何か(食べ物とか着るものとか寝る場所とか)が「沢山あるか/少ないか」ぐらいは瞬時に判る。

かといって、特に食べ物なんていろんな種類・値段のものがあるし、まあ概ね3食+αで積算は可能だけれど、じゃあそれと自分の労働力であるとか、企業とかに買ってもらえそうな技能であるとかの価値なんかと数量的に関連させてバランス計算なんてしていない。ましてや時間の流れもある。どれぐらいの将来にわたって十分あるか/ないかなんて言ったらやっぱり「できるだけ沢山」ないと「十分ある」だなんて思えない。

そんな私たちに、数量信仰者達が言っていることって、「そんなええ加減なこったから持ってるはずの資源が非効率的に使われたり、眠ったまんまになったりして無駄になっている。さあ書き出せ!可視化せよ!さすれば計算でより効率的な活用が実現するだろう!」

理屈としては何ら誤っているとは言えない。さらに道義的にも大きく人道を外れているとも言えない。

でもどう考えたって全部が書き出されるわけもなく。。。

結局書き出される”べきもの”ってのもほぼ「書き出せ!」って言っている人々の好みに支配される。計算しやすいもの。とある理由により計算しちゃいたいもの(精神障碍者の数とか犯罪率とか、一般人なら聞いたこともないような病名やら犯罪名を持ち出しては、それに合わせて語らせてはカウントしていくなんて常套手段)。

計算できるものって善なの???

なわけないじゃん。

私たちの直観的な善って、数量じゃない。そもそも数量感覚っていい加減なんだし。じゃあ何?

やっぱり身の安全がより確実に感じられることでしょう。

数量計算法はこれに役立つように使用されるべきで、逆じゃあない。

つまり。

「数量計算できれば身の安全がより確実に感じられる」

誤り

数量計算ではじき出される結果というものは全て、数ある可能性のあるシナリオの内の一つでしかない。しかもあくまでも仮。さらには、自然法則が決めただの、国家権力なる抽象体が決めただの、その他知的権威者・団体が決めただの言って、数量計算を推し進める人・実施する人自身の「良い/悪い」の判断が、数値や数式には乗ってこない。というか、乗せないことこそが数量計算を推し進める人々の強みであり狙い。

そうしたバイアスを避けるための具体的対処策としては、数量計算しやすいものが出そろったら、そのまま計算してもいいけど、それよりも、そうしたものが出てきた意味を考える。出してきた人々の身の安全の感覚とどのように繋がっているのか?に注目して。

例えばこんなストーリー。

とあるコミュニティ対象の活性化プロジェクト。その準備段階としてよくあるワークショップ。参加型。コミュニティの人々に集まってもらって、強みや弱み、既存の資源や将来のヴィジョンなんかを”可視化”してもらう。

で。

例えば、人々が自分たちのコミュニティの強みの一つとして”絆”を挙げたとしよう。
では数量化してみましょうか?ということで、どういった交流がどれぐらいの頻度で行われているのか?などを調べてみると、どうも思っていたより大した交流がなされていない。特に財やサービスの動きという点で。

そこで。

「じゃあもっと活性化させたら絆も強まるんじゃ?」
という方向に行きたくなるところ(そもそもの目的が”活性化”だし。。。)、敢えて、
「何でこんなに微々たる交流しか行われていないのに、”絆”が強いって印象を人々は持っているんだろう?」

という方向に行ってみる。

現に強みと感じられている”絆”の意味を、財・サービスの流動という面では大したことがないことを明らかにした数量的根拠から再解釈してみる感じ。

それにどのような効果が期待できるか?

まず、数量に現れなかったものについて考える機会が得られる。「何も無いわけではなく、何かがあるはず」という視点で。

また、まだ「活性化のために将来何をやっていくか?」を描く前の、現時点での自分たちのコミュニティについての振り返りがなされる。

「振り返り」って案外大事。

数字や数式の世界の欠点は「振り返り」が起こり難いこと。強みは勿論明確な将来予測。しかもいくつも選択肢が出せるから自由に選択できるように見せ掛けられる。

勿論丹念に証拠を挙げて過去や現在地だって検証するわけだけど、「あるか/ないか」については既に決められてしまっている。数値や数式で表しうるもの。まさか自分たちの認識・判別の積み重ねが数値や数式で表しうるものを決めているなんて思わない。一たび数値や数式を使い始めると、その世界から外へ出ることは難しい。検証といえばそれら数値・数式の世界のお話。定義であるとか適用方法であるとか。数値や変数として挙げられていないけれども十分存在可能性のあるもの。これが新たに加味される可能性は低くなる。

「数字や数式って一体全体何なんだろうか?」

そういった稀にしか問われない問いを投げかけてみることができる、というのも、数量分析を元に、人々が感じている意味を探ってみる方法の利点と見做せるだろう。

私たちの数量感覚。ものすごくざっくりとしているもの。ざっくりしているとはいえ「沢山あるか/ないか」ぐらいはそんなに間違わずに判別できたりもする大事な感覚。それが一体どのような仕組みで形成されているのか?当然身の安全の感覚とだって相互に参照し合っているはず。

身の安全に関わる感覚・安心感って、意外なほど、「似てる/似てない」におっきな影響を受ける。

単に周囲を似た人々に囲まれているかどうか?ということも一つ。

目にする事象について「似ていることとしていいのか?」というジャッジもある。これって物的資源が「あるか/ないか」または「これこれを必要な資源として認識(判別)すべきか/否か」の判断次第で変わるであろう、”量的十分さが及ぼしてくれる安心感”とも繋がっているはず。つまり、「真似しといたら(物的資源などを入手できるという意味で)安全である可能性が高かった」などの経験とそれに基づく判断。

”意地悪力”って案外人間関係や社会に害悪だけしか及ぼさないってもんでもないのかもしれない。「似てる/似てない」に関する非常にびみょーな判断を、極力「悪いの自分」ってならないように、「良い/悪い」に絡めて行っているわけだから。

人間っぽい愛すべきズレ?弱さ?

まあでも。。愛すべきとはいえ、意地悪な行動に出てしまっているというのは、「そこまでいろんなことに困ってはいない」ことの証明なのだろう。

例えば物質的に困窮しておれば、それを克服するために「似てる/似てない」に関するびみょーなセンサーを駆使する時、敢えて特定の誰かを排除するように駆使するというのは考えにくい。何故なら、ともかく追い求めるのは安心感であって、不足している物質そのものではないから。非常に困窮している時に「これだけは絶対に必要」とかって選べないでしょ?

矛盾しているようだけど、人は物質的に困窮すれば、まずは仲間確保からアプローチして、それでもって多分物質的により安心な状況に至れるであろうことを期待する。

「そうではない。モノが足りないならモノを探して獲得しようとする。」という発想は、あんまり困窮したことがない人の発想。

そもそも私たちはまさに飢え死にすることがもしも確実に感知できたとして、飲み物食べ物を求めるだろうか?いや。感知できないからこそともかく生きるために飲み物食べ物を求める?

うーむ。

まったくの想像でしかないんだけれど、で?その飲み物食べ物とは何?水?ぐらいなら欲しいなーって思うかもしれないけど、生きるために具体的に何を求めるか?イメージ湧かない。沢山あり過ぎて。。。

それよりまず情報求めるかなー。だから人でなくても周りの色んなもの見たりするだろうけれど、、。やっぱ人に会いたいかな?そしたらなんとなくいい方法に巡り会えそうな気はするから。

貴重な情報源であるだけでなくて、、、結構安心すると思うのよね。世の中荒れていて、見ず知らずの人に不用意に近づいたりしたら、意味もそれほどなくそっこー殺されちゃうかもしれないけどね。。。

極端な空想はさておき、意地悪ってまあ余裕の証明で、戦時中の意地悪富農とかが極端に醜く感じるのだって、「そんな困ってないはずなのにぃ~」って直観的に感じるから。

余裕があったらそれを他者叩き落とし、もって自己保全に使うというのは多分様々な資源の量を重視する意識が強いから(だからいくら潤沢に持っていても十分と思えない)。もっと意味や「良い/悪い」について中々向き合いにくい嫌なこと(「悪いの自分」とか)にも敢えて目を向けてみると、よりいろんな人々との関係でどのように振る舞うべきなのか?丁寧に考えられるのではないだろうか。難しいだろうけど。。。人間って「良い/悪い」は考えないわけにはいかないからね。。。道徳的な生き物なんだってこと、今よりももっと明確に認識できれば、頭の働かせ方とかもちょっとは違ってくるんじゃないだろうか???(希望&祈り)

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