はんぶんの月が見ている
昔を懐かしむ、ということは、子ども時代やほんとうに若いころのことを思い返したときに去来する感覚のことだと思っていたので、大人になっても延々と積み重なっていくものだということに気づいたとき、なんだか途方もない気持ちになったのを覚えている。
思い返すたびセピア色の苦しさに胸を掴まれるのが若さなら、はやくそんなものを捨てて大人になりたいと思っていた。
だから、私はこの苦しさと一生をともにしなければならないかもしれないと悟って、草臥れたような気持ちになった。
今日はひさしぶりに川沿いを歩いた。うちから歩いて10分ほどもすれば、川べりにたどり着く。
風が気持ちよかった。川というよりは海のように、寄せては返すような水音がして、水辺に草がゆれていた。ほんのりと潮の香りさえするような気がした。
ざぷん、ざぷん、ざざ
不規則を掛け合わせたリズムが似て非なる繰り返しを生み出すのに耳をあずけ、しばらく目を閉じる。
ここらへんに、ベンチがあればいいのに。立ち止まって眺めるには、思ったよりも人通りが多い。収まるべき場所にないものは人に違和感を与える。私がこうして水の音をただ聴いていることさえ、見る人見る人が意味づけしていくのかもしれない。それが煩わしい。だからここにベンチが欲しい。
雲一つない空、夕暮れが憂鬱を連れてくるまえの、ほんのひとときのおだやかさに包まれる。
ひとりだ。
このおだやかさのなかで、ずっと、安心したまま迷子になっているような気がしている。
まえにこの場所で、ひとりで泣いたのは、あれは、7月の終わりのこと。
棲家を替えるたび、日常を履き替えるたび、「懐かしさ」という名の胸苦しさがふえていく。
ほんの少し前まで足繁く通った道や、季節や、光、そして人まで、勝手に「過去」になってアーカイブされていく。許可した覚えもないのに。
いま私はここを歩いているのに、この人といるのに、過去を辿っているような気持ちになる。私が呼吸をして、新しいものとしてそれを感じて受け入れることを許されないような疎外感。あなたはもうここの人ではないのよ、と告げられたような、行き場のないつま先が、別の意味での未知を、他人行儀な今を切って歩く。
そして考える。私はどう在りたかったのだろうと。
「約束の地」が存在すると信じていたのかい。あなたの帰る場所が、この世界にあると本当に信じていたのかい。
違和感の中に終の住処をみつけるほかないのに。
そうですか。だったらせめて、私は気にも留めず、自由をかろやかに泳いでいきます。
そう、美しく生きたい。みじめはいやだ。
そうして、美しく生きたい、と願ったはずなのに、その美しさが何処にあるのかいまも見つけられないでいる。
私はどう在りたかったの。去年の夏、ひとり泣いたこの場所で今は涙の一粒もこみあげてこない。
私には戻りたい時代も取り戻したい価値も書き換えたい過去もない。
それは自分の来た道に満足しているというより、それを願ってもしかたがないというあきらめの方が強いのかもしれないけど。
今日という日がひとしく失われていく、今という瞬間が過ぎたそばから卒塔婆に変わって突き刺さっていく。
私が見ている「現実」のようなものは、もしかしたら墓標みたいなものかもしれなくて、ふと目覚めると自分が老婆の姿になっているのではないかとか、そんなことがいつも頭の隅にある。
はんぶんの月が見ている
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