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結局、“仏縁”があるかどうか

 コロナ禍3年にしていよいよマスクを外す日がやってくる。私のようなアラカンにとってもなかなか長かった歳月。ましてや大学3年生の次男にとっては学生生活のすべてがあった。これは重い。

 私もすっかりさっぱりお寺の参拝へ行かなくなってしまった。そういえば、おととし秋に訪れた高野山も、惰性に流される感覚のままに帰京したのだった。そして、それでも日々の生活にまったく支障はない。どうなっているのか、私の仏縁。

 定年前のタイミングで会社を出た先輩からLINEがきた。「最近、日本の仏教のことを調べる機会があったら目からウロコだった。今度、ゆっくりいろいろ教えてね」。なるほど。「お役に立てることがあるなら、もちろんいくらでも」と返信する。

 ふと、考えた。

 原始仏教から大乗仏教への流れ、日本の各宗派の特徴、禅宗の特徴や座禅の作法、密教の世界観。こういうことが知りたいなら、一般の方をはるかに凌駕する「知識」を語ることはできる。

 しかし、先輩が求めているのはそういうことなのだろうか?もしもそれを超える“信仰”レベルのものを期待されているとすれば、それはことばで伝えることはできない。「結局は“仏縁”があるかないか、なんですよ」としか話しようがない。

 そして、その自分に“仏縁”があるのかどうか、さっぱりわからなくなっているのだから、これは困ったことになっているのだ。
(23/3/12)


 

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