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美術史第12章『ビザンティン美術-後編-』


マケドニア朝ルネサンスを築いた文人皇帝レオーン6世


  867年、ユダヤ教徒のギリシャ人を始祖とするアモリア王朝をマケドニア地方に移住してきたアルメニア人移民のバシレイオスが打倒、マケドニア王朝ビザンツの時代が開始し、その跡を継いだレオーン6世が法律を整備し安定を築き、ビザンツ帝国に2回目の黄金期が到来、10世紀前期にその跡を継いだコンスタンティノス7世が宮廷で学者を保護した事で、「マケドニア朝ルネサンス」という芸術の文化が発生した。

バシレイオス2世時代の広大に戻ったビザンツ帝国


 そこではマケドニア朝の前のアモリア朝の時代から行われていた古代ギリシアの著作の研究が進み、多くの学術書が生まれ、皇帝自身も儀式や統治についての書を執筆しており、次の次のバシレイオス2世が東からやってきたブルガール人を主体としたブルガリア帝国を滅ぼしバルカンを併合、シリアやアルメニアも征服、キエフ大公国を宗教的影響下に入れ、南イタリアでイスラム勢力に対抗するなどして国力も増強した。

ギリシア中部にあるオシアス・ルカス修道院
パリ詩篇の一ページ

 美術では古代ギリシアの研究の影響でヘレニズム美術が流行し、教会建築でもローマ美術のバシリカ式とヘレニズム美術の集柱式の混在した様式から、オシオス・ルカス修道院のようなヘレニズム美術由来の集柱式のものに変化、工芸では「パリ詩篇」や「ナジアンゾスのグレゴリウス説教集」など古いギリシャの様式を真似した写本装飾などが行われた。

完全に縮小したビザンツ帝国

 11世紀後期、ビザンツ帝国はイスラム教を信じる東からやってきたチュルク系民族の大国セルジューク帝国の地方政権であるルーム・セルジューク朝に東の領土の多くを奪われ首都目前まで迫られ、西からはフランスのノルマンディーからやって来たノルマン人に重要な南イタリアを奪われ、東ヨーロッパはセルジュークと同じチュルク系民族のペチェネグの侵略を受けているという危機的状況に陥っていた。

ヴェネツィア・ジェノヴァによって復活したビザンツ帝国

 しかし、その後のクーデターでマケドニ王朝の次のドゥーカス王朝が倒れ、マケドニア王朝の血縁者によるコムネノス王朝時代が開始すると、ビザンツはコムネノス家やドゥーカス家、その他の有力者達の連合国家となり、イタリアの海上国家であるヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国の協力を得て国力を強化、敵国達に次々と勝利し侵略を食い止め再び繁栄した。

ダフニ修道院

ネレズィ修道院聖堂の内部の絵画

 その繁栄の中では華やかな宮廷美術と伝統的な美術が融合した美術様式が生まれ、有名なものだとダフニ修道院やネレズィ修道院聖堂などが建立、しかし、その繁栄の中の後にはドイツとの戦争での支出で財政が悪化、当然ドイツとの関係も悪化し、さらにヴェネツィア共和国の増長に対してヴェネツィア人を逮捕したため関係が悪化、ルーム・セルジューク朝にも敗北、ビザンツは衰退し分裂や恐怖独裁が発生した。

一時的に地図から消滅したビザンツ帝国

 そんな中、ヴェネツィア共和国とドイツとフランスが連合した第4回十字軍を結成、コンスタンティノポリスを占領しビザンツ帝国は滅亡、代わりにフランス貴族を王にしたラテン帝国が建国され、ニカイアやトレビゾンドにビザンツ帝国の亡命政権が誕生、しかし、ラテン帝国は非常に弱い国で13世紀後期にはニカイアの亡命政権のミカエル8世がかつてビザンツ滅亡を主導したヴェネツィアやジェノヴァの協力を得て、ラテン帝国を滅ぼしビザンツ帝国を復興した。

ビザンツの復興を達成したミカエル8世の肖像

 パレオゴロス王朝ビザンツの時代が開始し、ビザンツ征服を目論んでいたフランスを第2リヨン公会議への出席や、シチリア島がフランスから独立しようとしたシチリアの晩祷戦争への強力で押さえ込む事に成功、そして、次の代のアンドロニコスの時代からは、東からはルーム・セルジューク朝から独立して拡大していたオスマン帝国、西からはセルビア帝国に侵攻されかなり多くの領土を喪失、この頃にはビザンツの復興を支援したヴェネツィアやジェノヴァに経済的に支配されるようになっており、内部争いまで発生した。

パレオゴロス朝時代に書かれた立体的なアヤソフィアのキリスト
コーラ修道院の復活の絵
コーラ修道院(現カーリエ博物館)

 しかし、そんな衰退の中、文化面では「パレオゴロス朝ルネサンス」という全盛期を迎えており、古代の哲学、文学、天文学、歴史などの研究がさらに進み、古代のギリシアやローマの文献の注釈や写本が盛んとなっており、それらが発展、さらに美術の面でも古代ギリシャのような写実的で繊細な画風のモザイク画やフレスコ画、コーラ修道院などの建造物などが制作され、15世紀にオスマン帝国によってビザンツ帝国が完全に滅ぼされると、古代ギリシアの高い文化レベルのビザンツの知識層がビザンツで造られた写本を持ってイタリアに流出、これが後にイタリアで起こるルネサンスという世界史の中で最も重要な潮流を引き起こすこととなる。

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