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「愛されたい」というニーズは永遠に満たされない

鳥羽和久さんの『親子の手帖』を読んだ。

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帯にもある通り、母であるわたし、父であるあなた、そして、かつて子どもだったすべての大人が、自分事として身に置き換えて読める本だ。

「子育て」というと一方的に、親が子を育てているように感じられるが、実は親子も、数ある人間関係のひとつに過ぎない。

たしかに、赤ん坊は何もできない状態で生まれてくるし、人は必死にお世話をしてかわいがった自分の子どもに、特別な愛着を抱いてしまう。それが、親子という人間関係を特別視してしまう理由でもある。

子の方はどうなのだろう。ある程度大きくなるまでは、子どもの生存の可否を握っているのは親なのだから、当然そこには力関係が生じてくる。


子どもは、自分の弱さゆえに親を支配し、そして支配される。


なんだかマウント取り合ってるみたいで、「家族」を神聖なものと捉えたい向きには不都合な話ではあるけれど、実際、家族間でのパワーゲームというのは存在する。

こういったパワーゲームが、いったいいつ頃から表面化するのか、と考えると、子どもが排泄の自立をし、自分ひとりで遊びや趣味に没頭し始める頃ではないかと思う。


乳幼児のうちは、親が息つく間もないくらい次々と、子どもの側から要求が出される。
「ごはん」
「オムツ」
「抱っこ」
親は子どもからの具体的な要求に応える、という形で愛情を表現できる。

「わたしを見て」
「一緒に遊んで」
「手伝って」
これも具体的な要求だ。

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それがだんだんと数を減らし、「手がかからなく」なっていくあたり。
親は、自分自身の愛情を、どうやって子どもに届けたらいいか戸惑う。
求められて与えていたうちは考えなくて済んだ。これからは、どうやって子どもへの強い感情を表現しよう。

行き過ぎた愛情が、子どもへの呪縛になってしまう例もよくある。
いつの間にか、子どもから親への要求より、親から子どもへの要求のほうが、はるかに上回っていたりする。


わたしたちは、本当は愛情の「伝え方」を知らないだけなんじゃないか、と思う。

恋愛中はストレートに言えるのに、家族になると謎の「暗黙の了解」ってやつが作動して、当たり前のことを言わなくなる。
本当は毎日「そばにいて」「ギュッとして」って言ってもいいのに、なぜか突き放してしまう。

そうやって、コミュニケーションの欠如を続けていながら、「愛されたい」と思ったりしているのがわたしたちです。

でもね、「愛されたい」って、結局、満たされることのない要求だと思う。

だって、どうやったらその人が「愛されてる」と思うかなんて、その本人以外にはわからないでしょう。
あれこれ構ってほしい人もいれば、「放っておく」ことが愛情だと感じる人もいる。

わたしたちは、自分がどうしてもらった時に「愛された」と感じるのかを、人に伝えていない。
たとえば、「作った料理は残さず食べてほしい」とか「寝る前にハグして」とかちゃんと言えてる?

わたしは夫にそういう具体的な要求を伝えてないなー。

子どもに対しては、「ママはこうしてほしい」というリクエストをたまに言う。でも「愛してる」と伝える方法は、実際は、子どもからの要求にこたえる、という形に置き換わっている。「遊んでー」とか「見ててー」とか。それがなくなったら、毎日ごはんを作って、それを相手が食べてくれること、とかに愛情表現が置き換わるのかな。


もっと言ったらいいですね。相手に対し、要求したいこと。

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