見出し画像

母親が子どもに教える「暴力」とは?

どこの家庭でも、子どもに「暴力はいけないことだ」と伝える雰囲気はあるだろう。現代の日本ではことさら。家や保育園、学校等で繰り返し教えている「暴力=悪」という価値観。

私はよく歴史物のドラマやドキュメンタリーを見るけれど、約1000年前の日本では、「暴力」=「必要なもの」として、子どものうちから身につけることをよしとされていたようだ。
母親は子どもに「やられたらやり返すこと」「欲しいものは力で奪うこと」を教え、その通り育った子どもたちは、時に兄弟間、身内同士で争う。

「より強い遺伝子」を残そうという目的のためには、同じ血をわけた子であっても淘汰されることを厭わない。昆虫や野生動物と同じ考え、それがナチュラルな子育て法だったわけだ。

1000年前からみれば、現代の子育ての方がよっぽど不自然。
まあ、そんな大昔から、暴力というのは自然にあったということです。

ところが、私にとっての「暴力」の概念を大きく変えたのが、
非暴力コミュニケーション(NVC)

マーシャル・ローゼンバーグ博士によって書かれた本「人と人との関係にいのちを吹き込む法」に書かれている暴力は、いわゆる「武力」ばかりではない。
例えば、子どもの頃に「男の子は人前で泣いたりしませんよ」と言われて、どんなに悲しい時でも涙をこらえてしまうようになった男性。
欲しいものをねだった時、「うちは貧乏だからだめ!家族はあなたひとりじゃない」と言われ、自分の欲求を口にするのを恐れるようになった女性。

このような、のちの人格にまで影響を与えるような言葉を人に投げかけることを、暴力的コミュニケーションと呼ぶ。それは時に、甘い砂糖をかぶっていることもある。


例えば、
「いつもお母さんの言いつけを守って、あなたは本当にいい子ね」と
褒める暴力

「あなたがいないと生きていけないの」と
相手に責任を感じさせる暴力

「◯◯をしたらおやつをあげるからね」
「〇〇しないと、おやつはなしよ!」
子どもに言うことを聞かせたい時に使うアメとムチ
この両方ともが、実は暴力だったと知った時、たしかに自分はこうやって育てられたり、周りで見聞きしていたけれど、それの恐ろしさが分かっていなかったと思った。

私たちが普段、ついやってしまうコミュニケーションが、実は暴力の意図をはらんでいるのだ、という事実。
相手をコントロールしたいという無意識の願望から編み出される、さまざまな技法。
「怒り」すら「自分が」怒っているのではなく「相手のために」怒っているのだと思い込む。


母親をやっていると、急に不安になることがある。
私にとって都合がよいルールを、「人として」大事なルールだと教えこんでいないか。
たかだか数十年分の人生で身につけた社会的通念、価値観、世の中の常識っていうやつ。
もしかすると、自分の親世代から注入された謎のルールなんかも、無条件に子どもに引き継いでいないか。
母親という存在は、子どもにとって一定期間、絶大な力を持つわけだから、それだけ自分の「暴力性」に敏感でなくてはならない。 あっけらかんと「やられたらやり返せ」で子育てしていた時代とはわけが違う。


子どもへの最初の暴力が、「世の中のルールを教えること」だなんて聞かされたらあなたはどう思うだろうか?

私にこのことを考えさせてくれたのが、友人の書いた以下の文章;

『 イジメだけが暴力ではない
  体罰だけが暴力ではない
  世の中には自分の意思に関係なく
  無条件に従わなければならない
  ルールがあると
  信じ込ませることが暴力だ。
  』


いままさに、「学校へ行かない」と訴えている息子に、「なんで行かないのか」を言語化するよう求めていた私。それは、逆にいうと「行く理由」は説明しなくていい、という前提をもっていることになる。

「大多数の人がそうしている」という統計的事実や、「自分もそうしていたから」という経験値がどれだけ説得力を持つかは疑問だけれど、そもそも「行く理由」についてちゃんと考えたことが一度もない、というのが悲しい。

「行かないこと」に理由が必要なら、「行くこと」にも理由が必要。

いま彼にとって学校とはどんな場所なのか。
そこに明確さ、意味、喜びはあるのか。
疑問を持つ、というところに今は希望を感じている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?