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[小説連載]絡新婦 #8(完)(期間限定 全8話+あとがき 無料公開 毎日20時連載)

・毎日20時次章掲載予定(予期せず変更もございます。ご了承下さい。)
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各話リンク
#1(第1話)
#2(第2話)
#3(第3話)
#4(第4話)
#5(第5話)
#6(第6話)
#7(第7話)
#8(第8話)
#あとがき2020/07/25(土)更新予定 

 遥子には悪いと思ったが、とてもあの場にはいられなかった。父の亡骸、強姦にあった日抱きしめてくれた父の姿。父の事ばかり頭に思い浮かび続けてどうしようも無かった。シャワーから流れ出たお湯は躰を伝う。お湯の流れ去る先には、曲線を描くことなくただすとんと落ちる寸胴な腰。あの女譲りだ。あの日、母は女として哀れむだけで、母として私を守ってくれることはなかった。本人はそんな思いじゃなかったとしても、私にはそうしか思えなかった。きっとあの女は父がこんな状態になるまで、毎晩他の男の上でこの腰を振り続けていたのだろう。自分にその腰があることが憎くて堪らなかった。遥子も同じだろうか。欲望の赴くままに、腰を振り続けていたのだろうか。いや、違うだろう。彼女を素直に同情はできないにしても、彼女には理由がある。浮気されていた父は遥子と似たような気分だっただろうか。あの女ももしかするとそういう気持ちで―
 それ以上は考えたくなかった。考えてしまうと、そのどろどろとした思考に飲み込まれてしまうような気がした。

 バスルームから戻ると、遥子は静かに寝息を立てていた。時計を見ると、夜中の三時を回っていた。着替えはもう済ませたので、そのまま部屋を後にした。廊下に出ると、どの部屋も静かで自分たち以外誰も居ないような気分になった。私は裏口から駐車場を抜けてホテルを出た。外は雨が上がって間もないのか、ホテルの前を流れる川は、真っ白な靄に包まれていた。街灯もはっきりと見えず、ただぼんやりした橙色の光だけが浮かんでいるように見えた。近くに駅はあったが電車はもうでているはずもないし、かといってタクシーで帰る気分でもなかった。自分の車は翌朝にでも業者に連絡すればいいだろう。ここからこの小川を下っていけば沿岸沿いに出る。自宅までは徒歩では何時間かかるかわからないが歩いて帰ることにした。

 町は異様に静まりかえっていた。小川からは大きな街道が見えたが、そこにも誰一人として歩いていなく、車は一台も走っていなかった。この通りにはコンビニがないから余計静かなのだろうか。こんな道をこんな時間に、こんな状況のときに歩くなんて。何をしているのだろう。遥子も同じ気持ちだったのだろうか。彼女も自分が何をしているかわからない、いや、最初はわかりたくなかったのだろう。そして次第に、本当に何をしているのかわからなくなってしまったのだろう。私もきっと同じだ。彼女が自分を蜘蛛だと例えていたけれど、確かにそうとも考えられるかもしれない。ネットという場所で網を張り、餌を食べ続ける蜘蛛。静もそんな蜘蛛の餌食になったのだろうか。今朝見た蜘蛛をふと思い出した。害虫を食べてくれるからとそのままにした蜘蛛を。じゃあ、静や私は害虫だったのだろうか。私はそうだったとしても、静は違うだろう。食っている男の方が害虫じゃないだろうか。でも、それも違う気がした。遥子は害虫ではない。

 街道には無数の電信柱が立ち並び、電線が縦横無尽に走っている。きっと、あれが目に見える表側の蜘蛛の巣だ。町から町へと、国から国へと、海を超えてもどこまでも広がる巣。きっとその巣には、人の醜い部分から生まれた埃や煤が絡まっているのだろう。だからこれほど世界は汚れてしまったのだろう。そしてこの巣が織り成す空間に広がる、目には見えない裏側のネットという蜘蛛の巣もその埃や煤で汚れてしまっているに違いない。

 この蜘蛛の巣の表側と裏側に、今朝のサラリーマンも、自転車の青年も、あの女子高生だって、駅前のホームレスだって捕らわれているに違いない。巣にかかってしまい、焦って、もがけば、もがくほど、糸は肉にぐいぐいと食い込むのだ。決して逃がしてくれる事はない。巣に掛かってしまえば、後は蜘蛛に食されるのを待つしかない。こんな大きな巣を張った蜘蛛の存在に、何故誰も気づかないのだろうか。いや、気づいていたとしてもあまりの大きさ故に、どうすることも出来ないと踏んだのだろう。きっと私の父もその蜘蛛の餌食になってしまったに違いない―

 足の裏にじんと痛みが走る。それほど歩いたのだろうか。どうやら、沿岸まで着いたようで濃い霧の中に薄っすらと橋が見えた。対岸には薄っすらと工場が見え、そこには幾つもの光が浮かんでいる。今何時だろうと思い携帯電話の電源を入れると、もう時刻は午前4時を過ぎていた。着信履歴には、母親の名前が画面ぎっしりと並んでいた。私はこれからどうなるのだろう。きっと、あの部屋から出て行くことになるのだろう。どんな生活になるのだろう。父がいない、あの人がいない生活は。先の事をどれほど想像しても目の前の靄がかった世界のように、今の私には数歩先のことさえもはっきり見えない。橋のアーチ状の欄干は靄で丁度半分辺りまで伸びたところでそれ以上先が見えなくなっていた。橋の正面には工場の石油タンクがぼんやりと見え、その球体状の石油タンクの上の部分には黄色い光、下の部分には赤い光がタンクを取り囲むように並んでいた。

  目の前に、巨大な蜘蛛が現れた―

 靄で半分辺りまでしか見えなくなっている欄干が巨大な蜘蛛の足に見え、その足が伸びている先の石油タンクの球体が腹に見えた。その蜘蛛は背中や足の部分から無数の煙を出していて、それが丁度触手のように見える。きっとこの蜘蛛が世界中の人々を食べているに違いない。でもこの蜘蛛は、私たちの欲求が生み出したものなのだろうか。それとも、悲しみや恐怖の化身なのだろうか。いや、やはり欲望の化身だろう。欲望が害虫を駆除するなんて因果応報とはよく言ったものだと皮肉に思っていると、突然手の中で携帯電話が震えた。

  「もしもし―」

 母からの電話だった。電話越しに聞こえる声は、とてもあの女のものとは思えなかった。困り果てて弱く、か細い声で泣きながら私の名前を呼んでいた。その声を聞いただけで、もう私は何も言えなくなった。母は早く帰ってきて。私があなたを迎えに行くから帰ってきて。あなたが私をどう思っているかは分からないけれど、私はお父さんのために夜な夜ないろいろな所に顔を出して支援を頼み込んでいたの。あの人は何も言えずに一人で抱え込む人だから、私がどうにかしてあげたかった。そんなことを延々と話す母の声を聞いていると、涙が頬を伝って流れ落ちた。母が話したことが真実なのかは分からない。でも、今ゆっくりと潮風に吹かれて動き出した霧の向こうには、夜の闇に工場がぽつんとあるだけだった。
 私は、その場に膝から崩れ落ち、手摺りで頭を打ってしまった。その拍子に、手元から携帯電話が抜け落ち、眼下に広がる夜の海へゆっくりと吸い込まれるように落ちていった。

  もう、目の前には蜘蛛もその巣もなかった―


 目が覚めると、彼女はもういなかった。お互い名前は知っているものの、何処の誰かも分からないままだった。時計を見ると始発に間に合いそうな時間だったので、着替えてホテルを後にした。外はしっとりとした空気に包まれていて、アスファルトは水気を帯びてきらきらと眩しかった。彼女はあのまま、きっとお父さんの亡くなった自宅へと帰ったのだろう。小川の向こうの駐車場を眺めると、まだ彼女の車が停まっていた。車は置いて帰ったのだろうか。


 駅につくと、朝のラッシュアワーで見事な混雑振りだった。昨晩、彼女に話したことが思い浮かんだ。蜘蛛の話だ。この雑踏の中にも私と似た人や、これからそうなってしまう人がいるのではないだろうか。そう思うと、目の前にいる人たちが蜘蛛の子どものように思えた。
 その蜘蛛の子どもたちは電車へと次々と押し込まれ、私も奥の窓際の方へ追いやられた。卵の中に戻された蜘蛛の気分はこんなものだろう。そんな窮屈な車窓から見える朝の都心は思っていたよりも綺麗だった。きっと、この電車に乗っている無数の蜘蛛たちも何処かに巣を張っているに違いない。私は頭の中で目の前に広がる町のビルの谷間に幾つか蜘蛛の巣を張ってみた。その蜘蛛の巣には、犠牲にした時間や、醜い欲望や、失った希望、そしてそこに無数の人が捕らわれているのだ―
そう考えてしまったことが少しだけ滑稽に思えて、私はくすりと嘲った。


 電車にぎゅうぎゅうに押し込まれた蜘蛛の子たちが電車から少しずつ降りていく中、私も目的の駅で電車から降りた。駅から自宅への道すがら、これからどうしようかと考えた。何をして、どうやって暮らしていこう。考えても、考えても、少しも先の事は思い浮かばなかった。自分のアパートの近所の辺りまで来ると街中とは違い、此処は相変わらず日は当たることもなく、空気もどんよりと淀んでいた。ゴミ収集場のカラスたちは朝食を済ませたのだろうか。ごみ収集場を眺めたがもうカラスたちの姿はなかった。錆付いた階段を上り部屋へと向かうと、部屋の前の手摺りに蜘蛛が巣を張っていた。ご苦労な事で。
 部屋の鍵を開けようとするとポストに何か入っていた。きっと広告チラシだろうと、扉を開けてポストから中身を取り出すとチラシに紛れて一通だけ手紙が入っていた。


 手紙を玄関の戸口で開けて読んだ。その手紙は夫からで、別れた今でもどうしても伝えておきたいことがあるという出だしから始まり、内容は自分たちが結婚する前のことだった。夫が浮気をしていたのは事実だったようで、そこにはバーで出会った女性と一夜共にしたことが書いてあった。それを読んだだけで、昨晩の自分とダブってしまって胸が苦しくなった。それ以来、私と結婚してからは一度も浮気をすることはなかったと書いてあった。今頃になって何が言いたいのだろうか。ただ胸が苦しくなるばかりだった。
 封筒をそのまま丸めて捨てようとしたが、中にまだ何か入っているような感触がした。封筒の中を注意深くよく見てみると、内側に小さく折られた紙が貼り付けられていた。その小さな紙を剥ぎ取り開いてみると、一本の線で丸く描かれた人が、二人手を繋いでいた。その絵の上には、ふらふらとしたあどけない字でこう書かれていた。

  「おか あさん、ごめん ね」

 私はその場に泣き崩れた。本当は精一杯大きな声を出して泣きたかった。でも声を出そう思っても、声はただ肺の中を木霊するだけだった。次第に全身が震えだし、ぼろぼろと涙が零れた。頭はじんじんと痛み、熱くなった目頭がずきずきと痛んだ。私は手の中の小さな手紙を両手で包み込んだまま、その場を動くことが出来なくなり、声もなく泣き叫ぶことしかできなかった―
 どれだけの間泣いていたのかは分からない。頭や目頭がまだ痛む程泣いた後、扉を閉めようとドアノブに手を掛けたとき、手摺りの蜘蛛の巣が目に入った。

  そこにはもう蜘蛛の姿はなく、ただ巣だけが残っていた―


あとがきへ続く

©2019 絡新婦 村永青(むらなが はる)

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