いづこへ_坂口安吾

自分に対する自信がなく,それでいてある部分(個人にとっては人生のすべて私の決定しうる選択肢すべてと考えがち)意識過剰でこだわりの強い,そんなあべこべの男という性質はしばし小説家や芸術家,音楽家に垣間見える性質である。

御多分に漏れず,坂口安吾著 短編「いづこへ」において主人公を取り囲む女,環境による彼の表層的には均斉のとれたあべこべなこだわりの思考が遺憾なく発揮されており,全編をめぐり人々の行動,あるいは自分の行動言動によって精神の琴線で繰り広げられる作者の思想の断片が散見できる。それは坂口安吾自身の像であるともいえる
女と男の考えの錯綜が垣間見える

「私はそのころ,耳を澄ますようにして生きていた。」


彼は,彼自身に,自信に,思考に辟易し外部から闖入する事物1つ1つにびくつき耳を澄ましていないといられないといった精神の持ち主である。

工場街のアパートに独居暮らしをしていたころ,女が通ってくる毎日を過ごしていた彼は,次第に食器や物が増えていくことに辟易していた。彼の信条は純潔と貞操の念を持つこと,そして金でも食でも太く短く生きることを望む不羈独立で歩んでいた。豪奢快楽の故であった。
通っていくる女の中に夫を憎みともにあてもなく旅寝で逃げ回ることで

「人生の苦労に感傷を加え,敗残の快楽にいささかうつつを抜かしているうちに女が私の所有に確定するような気分的結末を招来してしまった」

照れ隠しも甚だしいこの一節でこの女を所有するのだが,所有には彼の精神を苛虐させる発端となってしまう。
百万の男を誘うような多淫な女が経営をするスタンドは彼の行きつけであり女の主人と相互的に関係を持つほどだった。ある夜そこへ,所持する女がやってきて帰ることを要求する。それは彼にとって信念に掣肘を加えられたと感ずる出来事であり,所有することの意味にはたと気づいたのだった。そして線路を猛然と行く汽車に揺られながら自分の魂を自らで制御できない虚しさ,所有するという誰かに連れられてゆく人生が脳裏をかすめ,それまでの自信と信念が瓦解してしまった。魂の行く先に検討がつかなくなってしまった。
彼には,美貌のアキという従妹があった。彼女は着衣の乱れなどから好色を気にするようで実際は,男の生殖器の好奇心のみで肉欲へ陶酔するエゴイストであり,真実の魂の矮小さには悟らぬ人間だった。

ある夜,アキのギラギラとした目の笑いがスタンドの多淫な女と合致し,通俗的で卑劣な淫欲任せの堕落な行為に挑むことを決めるのである。それは多淫な女との遊びである。声をかけると彼は今までの貞操の念をかなぐり捨てたような淫欲任せの行為をしたことで興奮の中の快楽を感じるのだが忌憚なく拒否され,ののしられる。ここに彼は不潔な女すらも情欲にかられた行為は辱めうると考えていることに美貌なアキの段階を発見したのだった。
私のアキに対する解釈から生じる情欲と,好色への快楽を満たしにアキと温泉へ出かけ忌憚なく女の階級に対する発見に対する喜びを語ったのである。彼は自身のなさから根底的に弱気で謙虚であり,他人へ妥協に依存するたちであるので,吐いた唾は戻ってくると思っており,アキに決して辱めを受けさせようとは微塵も考えていなかった。
しかし,アキは私の女に,私の,女に対する魅力のなさや侮辱的な扱いを語る復讐を図ったのだった。

女の本性がこのように歪められた不自然な素直さしかないのかと,自分の手落の感情処理も復讐の情熱に転嫁させ甘えている,と軽蔑すべき存在であるのではないかとの考えに苛まれてしまう。そして蓋してともに暮らすことは愛のないのが自然なものなのかと悟るのである。
こうして信念や経験からバランスや差異の計算などではなく,潔く自分自身をその中に投企しその中に道を求める,救いを求める以外正解は存在しないとの確信を得るのであるが,女は低俗であるのか,自らの正義とは,それ以上に文字を書くことさえ私の「現身」が歩くのみ,虚偽であり,むなしい形骸であり,それは色欲にとらわれ陶酔するエゴイズムに他ならないのではないか,低俗陳腐で野合いがいの何者でもない行いではないのだろうか。

よるべない荒野を歩き回り,砂をかきむしり,噛み続けるようにただ虚しく,低俗陳腐でエゴイズムなおこないであること。追いかけ続け,発見したものは魂のない形骸な言葉のみ,虚偽の自分のみ,そんな虚しい空虚な私はいづこへ。線路は目当てのない果てしのない無限に続く自らの行路のような気がする。



ここで,物語は終幕する。
作家という心の想念をことばを用いて外に出し,具体化することの鬱屈した心,苦しさ,そして女の,世界の釈然としない態度に苦悩する安吾の精神世界を散見することができる短編であります。
考えに微小な変化は見られますがやはり正解はなく,どうしたらいいかわからない。いづこへいったらと苦悩を続ける。精神の思想の牙城を作り上げたら瞬く間に瓦解する自信。なにを信じたらいいのか,この世界は偽りの空虚な世界なのか。しかし周りにある形式化された物体にはあたかも答えがはっきり明示されている。目的地が決まっているように見える


思考には人間には終わりがない。投企しつづけ脆弱な自信をもち,苦悩し続けるのが人生であるような気がしてきます。安吾の小説には毅然といけしゃあしゃあと自らの精神を強く持つことを説いたものもあれば,情愛に満ちあふれた素敵なものまで.優れた小説は読むものに常に疑問を投げかけ続ける。それは時がたち自らが成長していっても新たな疑問で苦悩する(させてくれる)。そんなものだと思っています。それはつかみえない人間の微小な断片の一部をおぼろげに示してあるゆえであると思えます。

「新しい蜘蛛の巣は蜘蛛の貪欲まで清潔に見え,私はその中で身を縛られてみたいと思ったりする」

「自信というものは,崩れるほうがその本来の性格で自信という形では一生涯に何日も心に宿ってくれないものだ。こいつは世界一正直でおだてても自らを誤魔化すことがない。常に他の騒音に無関係でそういった意味で小気味よい存在だったがまともに相手をして生きていくためには苦みにあふれた存在だ」

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