12/27 pm430 幾日ぶりのシャワー 死んだ元僕が社会を受け付けないかのように, 大海へ続く水を妨げ反抗すると同時に羨望のまなざしを向けるように 排水をせき止めていた。 細胞が死,僕を離れた元自分さえ適用を拒んでいた 死というものなく,観念上は生き続けているのか,死後の世界
自分で興味のある教科をとった後期。 はじめは好きな科目があってそれに相乗効果で自らを引っ張っていけると本当に思っていた。最初の実験で,専門で彼らがちゃんとした楽しそうな笑顔で話していて教室の隅々でグループを作っていて,そうしてなれたような感じで話す教授へ,早くも息が詰まり集中どころの話じゃなかった。でも好き勝手に動いた結果,そして背に腹は代えられない状況ならば,バイトが楽しいこと,友達に支えられていること,生活を支える音楽があることを実感したあとならできると思っていた。 でも
セントジョーンズワートを飲み始めて早三日。 軽度中程度への抑うつ気分へのアプローチとしての1つである薬物投与法においてハーブの一種であるセイヨウオトギリソウ(St. John’s wort、学 名 Hypericum perforatum)は各国で用いられるそうだ。 上記の通りヒポクラテスの時代から用いられている薬草であるらしく, 厳しい環境を生き延びてきた植物を摂取することには,植物の歴史を体に取り込むことであり,人間の神経系に作用してしまう植物が多くあることに 薬学へ関
avを始めた性的商法が虚しく興奮するどころかむしろ抑うつに陥る,この人は何があってこの仕事にたどりついてしまったのか,表紙の笑顔で涙が出る。 内容説明が明らかに人として認識していなくて,怒りと気持ち悪くなる 誰が見て誰が作っているのか,これが資本主義の現実なら悲しみしかない
世界の歩き方を読んで,この世界にはまだこんなにも知らないことがあって希望が湧いてきた数秒後,希望は自分にとっての希望ではなく,結局なしとげること,いやその前提の一歩目の行動すら起こせないこと 生活を見直し,できうる限りの生活の癖,それはどんな時に落ち込むか,堕落の一歩目を認識し,行動を改めても,今度は睡眠ができなくなり,睡眠時間三時間で気合を入れても日中常に吐き気,文字や言葉が頭に入らない,食べ物がおいしくない,そうして眠れず,寝に落ちたら12時間寝てしまう そんな生活であ
もっと心を解放してあげたかった 好きなものは好きと嫌なものは嫌と, 恥ずかしげもなくそうしてもっと人を好きになりたかった
精神的閑雅がなければ哲学はできないとセネカは言ったが, 精神に空白の空間を確保すること,なにもない空間を開けること が瞑想や心の平静を保つ役割ではないか。メモリーのようなもの 多忙,情報過多などの 刺激を求めることはこの空白に嫌悪感を感じ早く埋めたいとの衝動にすぎない 退屈の意
誰かにだけしか見せない笑顔があればいいのさ
心の揺れを鎮めるために静かな顔をするんだ。 眠っている人を思い出すんだ。 ぽっかり空いた心の穴を少しずつ埋めていくんだ。 ぼんやりしてればいいことありそうな気もするし気もしないしわからないけど 寂しいときに泣ければいい,誰かにだけ優しければいい,明日に頼らず暮らせればいい
なにをするにも心がどこかに置いたままで,意識と精神が乖離していた今日。 頭が混乱しているかのようにこれをしよう,面白そう,授業をきこう,読み進めようとするのだが,思ったそのすぐ後にはほかのことに心が移りたがった。文を話を理解すること=短期的な記憶の保持,そのつながりを探す思考が全く動いてくれず,自暴自棄になり思考が希望を持たない方向へと続いた。 興味が次の瞬間にはなくなっており,この感情の自分と興味を持ったさきの自分が乖離しているように感じ,平衡状態,平静状態,中庸を保つこと
もうこりごりである。本当に一生は一回で良くてなにがあっても大学のこの2年半は体験したくない。hp1で生き続けるようなものでありなにかあると心は死に,でも終わらないのだ。さらに何かが襲ってくる。
戦争という世間的な世相に流され,兵役制度に従順に従いそれによって自らを忘れたものが兵隊という解釈をしているが デカダンスの頽廃的な態度,そして質実剛健の正反対に位置する彼の思考からこの作品を解体していくと,たった18行の作品であるにもかかわらず非常に興味深い小説であった。 物語冒頭三年まえに死去したことになっており片手と片足がない状態で帰国する。 南の島ということが彼が現世との距離を鮮烈に感じる表現である。一般的に考えて南の島という設定は南国の楽園のような地域であり,この小
常識や醇風風俗はこの世の真理でも,正義でもなんでもなく,万人に当てはまる解決策はそこには存在しない。かくしてこれらにひどく辟易し精神との格闘を行うのが小説といふものだ。 日本語では恋する愛する好きといった言葉のニュアンスによってひどく程度が変わる性質を有している。しかしこれには国民性との非常なる矛盾を生じる。そうあべこべである。 風俗によって下等なもの,下劣なものと規定されがちな時代性が存在していたのにも関わらずこうした言葉の使い分けが存在するのは何とも甚だ疑問を呈する。
はたと消費することを無意識的に求めている意識が浮上する 刺激がほしい,これは消費したいとの願望にほかならないのか
自分に対する自信がなく,それでいてある部分(個人にとっては人生のすべて私の決定しうる選択肢すべてと考えがち)意識過剰でこだわりの強い,そんなあべこべの男という性質はしばし小説家や芸術家,音楽家に垣間見える性質である。 御多分に漏れず,坂口安吾著 短編「いづこへ」において主人公を取り囲む女,環境による彼の表層的には均斉のとれたあべこべなこだわりの思考が遺憾なく発揮されており,全編をめぐり人々の行動,あるいは自分の行動言動によって精神の琴線で繰り広げられる作者の思想の断片が散見
小さな喜び,それは日々の生活にありふれた現象である. 水を透き通る光の粒,息吹く草花の香り,悠長に琴線を揺らすメロディ 鎖のように連ねて微小に,それでいて燦然と輝く小さい明りを編み込み自分の人生の玄関にかけるのである。それは針葉のリースのように,それは喜ぶかのように 熱病のように歪んだ顔は哀れにも忌まわしくこびりつく。そこには哀愁は存在しえず,現飽食と飽情の世界において,一時的刺激であるにすぎない。 性急,それは,わずかばかりの硬貨へ自らの抒情を誑かせ,切り刻まれた生命へ