恋愛論_坂口安吾

ほんとうのことというものはほんとうすぎるから私は嫌いだ.
死ねば白骨になる.死んでしまえばそれまでだという当たり前すぎることは無意味だ

常識や醇風風俗はこの世の真理でも,正義でもなんでもなく,万人に当てはまる解決策はそこには存在しない。かくしてこれらにひどく辟易し精神との格闘を行うのが小説といふものだ。


日本語では恋する愛する好きといった言葉のニュアンスによってひどく程度が変わる性質を有している。しかしこれには国民性との非常なる矛盾を生じる。そうあべこべである。
風俗によって下等なもの,下劣なものと規定されがちな時代性が存在していたのにも関わらずこうした言葉の使い分けが存在するのは何とも甚だ疑問を呈する。
わかったような大人は恋は意味のないということを情熱から知ってしまっている.しかし若者は頭でわかっていても体は本能であり情熱は生きている。

安吾は言葉の本来の意は物事を認識するための”ツール”に過ぎないはずなのに,こうして意味がはっきりと決まっている日本語は国民性と風俗とに影響を及ぼしているといっている(はっきりした物言いは嫌悪の対象だという)
それだけでとかく意味が伝わると思われ言葉に頼りすぎて心情が欠落しているのでは?と(これは現代のわかりやすい言葉の乱用.省略の流行にもひどく突き刺さる)

こうした言葉の使い分けから風俗,常識は個人には一対一で対応していることはない。自らの人生や文化は個人として建設していくべきであり,そこには冷たい孤独も存在するが鬱蒼とし寒々とし,灼熱で苛烈な精神の格闘,闘争の足跡が個人を創造し文化を創る。
常識には真理は存在しない,そして
安吾が語るこの世の真理は自らに断罪されることを最も恐れるべきで順風風俗に罰せられることは気にすべきではないと(犯罪が頭をよぎるが三木清は牢獄にいても自らの世界を絶やさなかったことからも非常に真理をついているのではないかと考えた)
自らの真実が何よりも大切である
それは冷たく荒涼とした世界であっても冷たく誇るべきである

めいめいがめいめいの人生をせいいっぱい生きること

孤独は人のふるさと。恋愛は人生の花である.

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