悲愴希望 揺らぎ

なにをするにも心がどこかに置いたままで,意識と精神が乖離していた今日。
頭が混乱しているかのようにこれをしよう,面白そう,授業をきこう,読み進めようとするのだが,思ったそのすぐ後にはほかのことに心が移りたがった。文を話を理解すること=短期的な記憶の保持,そのつながりを探す思考が全く動いてくれず,自暴自棄になり思考が希望を持たない方向へと続いた。
興味が次の瞬間にはなくなっており,この感情の自分と興味を持ったさきの自分が乖離しているように感じ,平衡状態,平静状態,中庸を保つことを反抗する無意識が悪さをしていた。
そうして,自殺はいかにして選ばれるのか。それはこうした偽りの,乖離した何者かを背負って生きてゆく希望の持てない感覚。エピクロス派のような希望を求めて楽しみを求める姿勢とは真逆の,得体のしれない何者かが支配すのこの体には希望を感じても実行できないことから,残されたなにか悪いこと,現状の悲壮感にさらなる悲しみが連なることから逃避し,予想がつかづどんな場所であるかもわからないあの世に身をささげることが何物にも奪えない希望であると考えがいたってしまったなら最後のツールとして自殺を選ぶものなのだろうと思った。

でもそれは最後の最後で良くて,日々新しい考えで漂流するこの頭には,現実という,いやそれは少なくともあの世以上にどんなことかはわかっている事物で微小な希望を持てることができることであり,それゆえ今日も生きている。この悲壮感を一瞬でも勝ることができる希望を経験的に持ったことがあるからこそさらなる日々を過ごしたい。
いびつな自分のという部屋の中で悲愴感と同居できる希望を持ち,悲壮感や希望以上の精神の無意識と意思の無意識が互いに抱擁を交わせるような関係性を目指し,屋根を外して光にさらしていけることが私の人生の目標である。

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