途中
セントジョーンズワートを飲み始めて早三日。
軽度中程度への抑うつ気分へのアプローチとしての1つである薬物投与法においてハーブの一種であるセイヨウオトギリソウ(St. John’s wort、学 名 Hypericum perforatum)は各国で用いられるそうだ。
上記の通りヒポクラテスの時代から用いられている薬草であるらしく,
厳しい環境を生き延びてきた植物を摂取することには,植物の歴史を体に取り込むことであり,人間の神経系に作用してしまう植物が多くあることに
薬学へ関心が高まる。
本題に移るが,書きたくなった要因として,3日間連続で,夢のような幸せな起き上がりたくない,この世界にいつづけたいと思う夢を毎晩見ている。そしてはっきりと記憶している。
二十歳がもうすぐ終わるころになり,私は過去の幸せな時間とそこに基づく価値観と自立し,自分で生きてゆく社会的に生きていく方向ずけとをうまく折衷できるよう模索を続けている。ドゥルーズは差異ではなく同一性をみてすべては途中であるとの思想であったはずであり,また社会を見てゆくとジェンダー論や戦時後の天皇制の廃止における全学連をはじめとする革命派としての左翼,三島由紀夫のような国運と自らの命がリンクしていた世代の右翼派の抗争。サルトルを始める戦後思想
個人的な感情であり,社会的な問題でないにしろ,なにかこうした文化のながれから学ぶことは多くあり私はいかに,どの段階で,途中で,グラデーションを少しずつ社会的な,少々ビジネス,自らが精神の豊かさとして心を生かすことといった芸術,哲学,文学の自分の好きを正直に生かしつつ,それらのカルチャーへ触れ,味わい支援し人生を豊かにするために,
社会的な視点へとグラデーションを濃くしていきたい。
ほんとうは,中学高校の時代で永遠にいたい,クラス内で,放課後で,教室で,,あのころに一日でも戻れたらどんなに幸せか。今なら正直に斜に構えずもっと多くの話や世界の広がり方ができると思う。
セントジョーンズワートを飲み,科学的には,SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の神経安定効果によって,かつて,私が中学,高校の教室での出来事,友達との授業前の会話,放課後の会話,先生との交流,こうしたあの頃の光景。存在しなかった当時のアナザーストーリーが夢のなかで生きている。
オトナ帝国の逆襲,エンドレスエイト,ビューティフルドリーマー
こうした映画が肌でなまなましく感じられる。もしも永遠にあの日々が続いたらと考えると本当におかしくなってしまうかもしれない。
大人になることは,段階的であって生まれてから時が流れてゆき,年齢というもので数えられるだけで,本来は子供のころの,小学校の中学校の高校の頃の,,もっというと赤ちゃんのころのその人であり,おとなとは定義であるだけで,グラデーションをつけてだんだんと少しずつ折り合いをつけて考えられるようになることであると思う。
そのために学問やアニメ,映画,音楽といったカルチャーはだんだんといろんな価値観を持ち,豊かにさせてくれる上で,うまくグラデーションをつけてゆくうえで,人にとってなくてはならない存在である。
すべてのものには終わりがくる。
ライブ
終演してしまったら一体となり友達として仲間として支えあい,歌いあった客はその場から去ってしまう。再び会うことはかなわない。部隊も終わってしまったらたたまれてがらんどうの空間である。演者もシャワーを浴び汗を流し,着替え明日を迎える。出来事としては終わりかもしれないけれど,どこかで記憶の中であの空間は生き続いている。いまも鳴り響いている。頭の中に。客もそのことを忘れず,あのことで生き続ける。
童貞
三島由紀夫は童貞の終わりの中で,高級の知識欲,低級の知識欲によって知識欲は構成されており,低級な性欲への知識欲が事実として知ってしまったとき,そこで低級の知識欲は100%満たされるわけではなく,少しずつ増えてゆくものだと。すべて知ってしまったとき,科学へ仕事へ100%そのために生きれるかといわれるとそうではない。なんどもこなすことでバランスを保ちながらできてゆく。
もっとも真の生き方は,特攻隊で明日死んでしまうことが確定している青年は,最後の日の夜,女性の美しさやはかなさ,愚かさ,そして尊敬を学びそこでこそ最も美しい生き方だといっている。
定義づけられたものは,それが終わったからおしまいではなく,常に続いてゆく,そこから始まることもあろうし,少しだけわかった気になることもある。すべては途中であるから
なんなら肉体がついえたとき目に見えない素粒子に分解されその後へと続いてゆくものかもしれない。このいま20年弱生きていると思っている私も,この肉体が始まったのは20年前でその前から,精神は存在していたのかもしれない。すべては認識できないが,すべては続いておりどんなときでもどんな段階でも途中である。
流れの中で生きるからこそ,他人として,性差として壁を設けて差異を図るのではなく,同一性からすべて途中であるからいま生きていることを
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