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終わらない夜逃げはない

勤め先の広告制作事務所のボスがフィリピンのダンサーだかシンガーだかにハマり、会社に来なくなるばかりかコーポレートカードで散財し、金庫をカラッポにした挙句、マニラに飛び立った5月の大型連休前日にスタコラサッサと夜逃げした話は2度ほどnoteで書いた。

驚いたのが夜逃げというのはいつまでも逃げ続けてはいられない、ということだ。実家のある名古屋にドロンして10日もすると、周囲の目がだんだん冷ややかになってくる。

〈なんでヒロくんは連休が終わっても
毎晩飲み歩いとるの?〉

ただでさえ噂好きな土地だ。その頃まだ元気だった親も(こいつ、いつまでブラブラしとるんだ)という空気を漂わせてきた。そりゃそうだろう、25歳にもなる長男がフラッと帰ってきたはいいが詳しい事情などは一切口にすることなく、ただひたすら昼過ぎから飲んだくれているのだから。

しょうがねえなあ、このへんが限界か…と諦めて東京に戻ることにした。

戻ったら戻ったでアパートの家賃を払うためにもなんらかの仕事に就かなければならない。もう二度とコピーライターにはなるまいと固く誓った以上、ぼくには職業選択の自由があった。

職業選択の自由 アハハーン♪

5年ぐらい前に流行った就職情報誌のCMソングを口ずさみながら新幹線に乗り込む。

さて何をやるか。

ここ3年間、つまり夜逃げした事務所にいる間はとにかくアパートと仕事場の往復が世界の全てだった。一度出社すると二週間ほどは泊まり込みになるので、休日やプライベートという概念は一切なかった。休みがあったところで月給11万円では何もできない。

そのおかげで極端に社会性を失っていて、果たしてこの世の中に自分に向いている仕事はあるのだろうかという不安にかられていた。何者かになりたいが自分に何ができるのかわからない、という令和のヤングの気持ちは結構わかる。

そんなふうに珍しく自問自答しているうちに眠ってしまった。

気がつくと新幹線はゆっくりと大きく左に傾いて、東京都内に入るところだった。

多摩川を越えると眼下にはぎゅうぎゅうに敷きつめられた民家の屋根がどこまでも広がっている。その間をミニチュアの人形のような人たちが歩いているのが見えた。

急に、この世の中で誰からも必要とされていない恐怖に襲われた。

俺以外の人々はそれぞれの仕事や役割を持ち、帰るべき家がある。待っている人がいる。求められる能力を発揮し、対価としてお金を得る。それを貯蓄、または投資に回して財産を作っていく。みんな明日に向かって生きている。

ふたたび車体は大きく傾き、車窓の向こうに『日本音楽高等学校』が見えた。

いつも思うがこの風景は自分に何かを訴えかけてくる。その声はその時々の心象風景なのかもしれない。あるときは、がんばれよ、だし、あるときは、おまえそれでいいのか、だし。

その瞬間、心に決めた。

実業に就こう。実業で一からやり直そう。広告なんて虚業だ。コピーライターだって学歴や出自がモノを言う世界だったじゃないか。

工場とか、建設現場とか、そう言うところで一日汗を流して働いて、稼いだ日銭で赤羽のOK横丁で一杯やってご機嫌で家に帰る。そういう生き方をしよう。

よくおばあちゃんが言ってたのが「ひいくれはらへり」だ。ひらがなにすると何かの呪文のようだが、要は日が暮れて腹が減るような自然な生き方が一番である、と言うことである。

人間は自分の分をわきまえて、誠実に、慎ましく、生きる。よし、ひいくれはらへりを実践していこう。有名になったり金持ちになったり偉くなって尊敬されたりしなくてもいいじゃん。

そう思ったら急に元気になった。その考え方はとてもしっくりきた。もしかすると生まれてはじめてちゃんと物事を考えたのかも知れない。

新幹線は品川を通過して、まもなく東京駅終点です、と車内アナウンスが聞こえた。窓の外には『パーパス』の電飾看板が気温18度であると教えてくれている。

アパートに戻ると家庭用ファクスにボスからの脅迫文が何通も送られてきていた。感熱紙のロールがすっかり空で、印字前のメッセージが13通残っていると液晶に表示されていた。

ぼくはボスからの脅迫ファックスを全てクシャクシャに丸めて捨てた。ロールを差し替えて残りの文書も印字した。ぼくはそれも目を通すことなくゴミ箱に捨てた。そのうちのいくつがボスからの脅迫だったかなんて、どうでもいいことだった。

西池袋に戦後まもなく闇市のドサクサで店を開いたと言う居酒屋でアルバイトとして働きはじめるのは、それから二週間後のことである。

ぼくの生まれてはじめての夜逃げは、そこでようやく幕を閉じた。

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