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追憶の六本木ランチ

ぼくの初任給は11万円でした。いまから32年前、1988年のことです。そしていろいろあって辞めるときには15万円になっていました。それが転職先の2社目では13万円に。そして3社目でまた11万円に戻ってしまいます。

ふつう、コピーライターの若手というのは転職を重ねてキャリアもスキルも、そしてお給料もアップしていくもの。どうしてぼくは右肩下がりなのでしょうか。いまならわかります。バカだから、です。目先の計算がまったくできないんです。

まあ、それはそれでいいとして(いいのか?)11万円という薄給にも関わらず、3社目がオフィスを構えていたのはThe☆ギロッポンこと天下の六本木です。とにかく物価が高い。なにをするにも高い。

11万円から家賃(ほとんどアパートには帰ってなかったので無駄)と光熱費(ほぼ基本料金のみ)を引いた残り5万円程度が一ヶ月の衣食遊にあてられるわけですが、服は着たきりスズメ、遊びにいく余裕があれば寝る、という生活なので、残った現金はほとんど食費に消えます。

しかし、その食事が問題なのです。

社長はほぼ毎日、秘書の女性と連れ立ってランチにいきます。そのとき、ぼくや先輩にも声をかけてくれるのですが、これが決してゴチというわけではありません。自腹です。当然、社長がお店を決めるわけですから、できるだけ安くて満腹になるお店を探して…ということにはならないんですよね。

するとどうなるか…そうです、社長たちに付き合えば付き合うほど悲しきランチ貧乏になってしまうのです。

そ・れ・だ・け・な・ら・ば・ま・だ・い・い・が!

彼らはメシのあと喫茶店でコーヒーを飲みながら優雅な午後の雑談を楽しみやがるんです。それがクリエイターの嗜みだそうです。そして、そのコーヒーが一杯800円ぐらいする!

…ええ、わかりますよ。わかりますとも。「そんなの付き合わなきゃいいんじゃないの?」ですよね。そうおもいますよね。当時つきあってた彼女にもさんざん言われました。

しかしですね、社長と秘書と、先輩とオレ、みたいな東京タワーおとんとおかんとみたいな弱小事務所ではですね、社長との距離感は命取りなんです。ちょっとした話題の中にも、厳しいコピーチェックをくぐり抜ける術が隠されていたりするんです。

なんだあいつ付き合い悪いな、あんな付き合い悪い奴にいいコピーなんか書けやしねえよ、だいたい旨いメシやコーヒーの味がわからなかったらコピーライターなんか仕事にならねえしな。そんなふうに言われるし思われることは間違いありません。

そ・れ・だ・け・な・ら・ば・ま・だ・い・い・が!

なんかあいつ、給料安いアピールしてんじゃねえの?仕事まともにできねえくせに、給与だけは要求するっての、ありえなくない?嫌味だよね、給与払ってる側に対して金がねえみたいな態度とるのって。そんなふうに言われるし思われることが明白です。

なので、3回に1回は断るのですが、あとは粛々とお付き合いするしかありませんでした。あれは辛かった…いまなら「なんとかハラ」とか命名できるヤツですね。いい時代になったものです。

そんな、ちょちょぎれる涙でちょっぴり塩っぱい味のする六本木ランチ。そんな中でもぼくが比較的行きやすかった当時の名店を記憶をたどって紹介します。

■勤労青年の店「越路」(閉店)
この店名だけではいったい何の店なのかわからないでしょう。カレーです。うっすらとしたぼくの記憶では、本格的なインドカレー、ではなくて絶妙に和のテイストにアレンジされたカレーだったような気がします。その証拠にお味噌汁が付いてきてました。『青春の壁』という張り紙の前にふたり横並びで座る席があったのが印象的でした。

■トツゲキラーメン(閉店)
ぼくの先輩の野口さんがいつも「ゲキトツラーメン、笑」と言ってたラーメン屋。東日ビル(東京日産本社ビル)の地下には数店の飲食店があり、そのうちのひとつでした。あんまり美味しくなかったような気がするのは当時コピーチェックのことばかり考えていたからでしょうか。メシを味わう、というような文化水準の高い行為は縁がなかったです。

■三河屋(現存)
霞町の交差点を青山墓地の方に向かって歩くと行列が。それは三河屋さんに並ぶ勤め人の列です。とにかくボリューミー。そして当時のぼくの感覚を拒絶する味蕾にも刺さる揚げ物のおいしさ…といいたいのですがやはり味の記憶なし。たぶんめっちゃおいしいんでしょうけど。「三河」という名前からも同郷の味を、いまなら懐かしむことができるのですが…。

■中国飯店(現存)
社長が好きで3回に1回はここだった気がします。当時としては珍しくプラスチックの箸だったことが思い出深い。味は、まあまあだったような。いわゆるヤングが喜ぶ脂っこい中華ではなく、大陸のおっとりした味わいだったと記憶しております。それにしても何食ってたんだっけか…ランチで1200円とか1500円とか、ぼくにとってはもはや地獄でしかない。

■麻布食堂(現存)
オムライスが売りの洋食屋さんで、ランチはほぼみなさんオムライス一択。たしかデミグラとケチャップが選べたような憶えがあります。ここもいつも並んでいましたね。もちろん味わう余裕なんかないです。それどころか行列を眺めては「こいつら…なんだかんだいって、今日、家に帰れるんだよな」と羨んでいました。完全に病んでますね。

■赤のれん(現存)
六本木から霞町に向かって246の坂を下っていく途中にある、博多ラーメンの名店です。と、いっても当時はラーメンの味もよくわかっていませんでした。ここは昼から通しで営業していたので、コピーチェックでどなられて、キャッチ出すのに昼を潰した夕方に、ボロボロになって足を運んだ覚えが。豚骨スープが涙でやや塩味強めになっていました。

■全国ラーメン党(閉店)
会社を挟んで246の反対側にあった、林家木久蔵さんが経営するラーメン屋さん。確か遅くまでやってて、徹夜が決まると先輩と連れ立って行ってましたね。2時とか3時とかだったから24時間営業だったのかな。全国のご当地ラーメンが揃っているんですが、これがまたひとつも美味しくないんです。そりゃそうですよ、食べ終わったら徹夜でコピー書かなきゃなんだから。

■吉野家(閉店)
地下鉄六本木駅の出口近くにありました。いまでも忘れられないのは、なんか春にキャンペーンやってて、店内BGMがキャンディーズの『春一番』だったことがありまして。何回もリピートされてるのをぼんやり聴いてたら涙が出てきたという。相当おいつめられていたんですね、そのときも。子供の頃に戻りたかったんでしょうかね。あまちゃんですね。

まあ、ほかにもいくつかあったとおもうのですが、記憶をほりおこして出てくるのがこれぐらいです。3年間(その後移転したので正味2年半ぐらい)でこれっぽっちしか飲食店が出てこないのは当時いかに強制収容されていたかってことの証ですな。

そして意外に現存というか、30年の時を経てがんばっているお店がありますね。こんど聖地巡礼してみようっと。

結論。
常に精神が追い詰められていると、メシの旨さがわからなくなる。直近の例としては「飯がまずい毎日を送っている斉藤由貴」が有名。

実際にこの事務所に籍を置いていた3年間は「食べ物」「酒」「音楽」「漫画」「テレビ」「ファッション」「その他レジャー」の一切が断たれていて、ぼくの中でぽっかりと知識と情報がない空白の期間。事務所にいた以外の記憶がまるっきりないんですよ。怖くないですか?ぼくは怖いです。

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