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霞町『浜の家』のおもいで

代々木公園から原宿を抜けて表参道へ。交差点を赤坂・乃木坂方面に直進すると右手に根津美術館があらわれる。下り坂に吸い込まれるようにクルマを走らせるとやがて道幅の狭い一方通行に。そのまま自転車や通行人に気をつけながら進むと見えてくるのが『浜の家』だ。

裏道のゴールである六本木通りと首都高3号線に面して佇む古い木造モルタルの一軒家。西麻布がまだ霞町と呼ばれていた頃の風情を残している。ぼくは浜の家に通じる笄川の暗渠を走るのが好きで、わざわざ遠回りすることもしょっちゅうだった。

ところが、久しぶりにこの路地を走ってみると浜の家がない。あの木造一軒家が跡形もなく消えていて、コインパーキングと化していたのだ。

おかしい。

ぼくはその違和感に納得いかず、もう一度六本木から乃木坂を経て根津美術館経由で北坂を下ってみる。しかし、やはり浜の家はなかった。

自宅に帰ってネットで調べてみるが、Google Mapの検索結果では「閉業」とある。食べログには「掲載保留」だ。

ぼくはGoogleストリートビューを小刻みに操作してクルマで走ったルートを辿ってみた。すると、やはりそこには浜の家はなく、小さなコインパーキングが。

あの浜の家がたった3台分の駐車場になってしまった。撮影日を見ると2020年3月とある。すでにその頃には店を畳んでいたのか。となるとコロナの影響ではなく、後継者不足?あるいは…?

でも前回この通りを走ったときは確かにあった。と、いうことはぼくが1年以上(あるいは2年近くも)この道を通らなかったということなのか。この狭い東京でそんなことはあるのだろうか。

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「あんたって本当に面白みのない人間ね」

22歳で入社した六本木のコピーブティックはボスとその愛人、そしてぼくと先輩の4人という文字通りアットホームな会社だった。ぼくはその頃、まるで仕事のできない駆け出しコピーライターで、事務所のお荷物と呼ばれていた。

いつもいつもボスにコピーチェックでダメ出しをされ、書いても書いてもボツにされ、悔し涙を流したところで仕事が前に進むわけもなく、かといって事務所を飛び出す勇気もなく。金も力もなにも持たない、きわめて先行き不安定な弱者であった。

そんな毎日はぼくから自信を奪う。いつからかボスやその愛人の顔色をうかがいながら話をするようになった。日常会話にも正解を求めるようになったのである。そんな人間が話す内容が興味深いものになるわけがない。

冒頭のセリフはボスの愛人に吐き捨てるように言われたものだ。場所はときどき社長と彼女が利用する居酒屋、浜の家。その日はたまたま不動産の大きな案件が終了し、たまにはハヤカワも誘ってやるか、と声を掛けられたのだった。

浜の家は焼き鳥やおでんが人気の和風居酒屋で、二階はテーブルが所狭しと並べられているがなかなか落ち着ける古民家風のお店。その日は久しぶりに事務所のメンバー全員で乾杯とあいなった。

四日ほど徹夜が続いた体にビールが染みる。中学・高校と晩酌は3日とあけず、という酒豪だったが上京し、社会に出て、どんどん酒を飲む機会が減っていった。ふつうは逆だろう。しかしその頃は酒を飲む金も時間もなかったのだ。

ボスと愛人、そして先輩の関係性は良好で、会話がはずむ。コミュニケーションのキャッチボールがどんどん進んでいく。笑いのラリーは続くばかり。その輪に、入れない。どうみてもおかしな方向に球を投げてしまう、あるいは打ち返してしまう。

そのたびに会話は止まり、座が白ける。では自分から、と提供できるような話題も持ち合わせていない。またボスや愛人から「そういえばアレ知ってる?」と振られても、100個あるうち98個は知らない内容ばかり。

それもそのはず、当時のぼくは事務所と家の往復で、それも月に3~4回がせいぜいという生活。あれほど好きだった音楽も聞かず、映画もテレビも芝居も見ることがなく、雑誌や話題の書籍を手にとることもなかった。

なぜか?仕事しかなかったからだ。自分の能力不足ではあるが、仕事がとにかく終わらない。終わったと思ったら次の仕事がはじまっている。少しでも仕事以外の時間があれば、死んだように眠る。一切のインプットが物理的にできなかったのだ。

そうして、冒頭の愛人のセリフである。

ぼくはそのままうつむいて、何も話せなくなった。

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仕事ができないのは、これはもう仕方がない。ボスにしょっちゅう罵倒されているように、ぼくには学歴も文学性もないのだ。だからといっていまさら大学に入学することはできない。知識もないし、経験も足りない。ボスが好きなクルマの世界も理解できない。

それは認めよう。認めた上で挽回すればいい。勉強すればいい。幸いぼくはまだ若い。

しかし面白みのない人間というレッテルは、どうにも納得いかなかった。こう見えて地元の名古屋じゃ10も20も歳が上の人間を相手に笑わせたり驚かせたり場を盛り上げたりしていたんだ。ヒロミチくんは本当に如才ないねえ、と言われたことも2度や3度じゃない。

それがなぜいまできないのか。

ぼくは自分の持ち味までなくなってしまったのかなあ、と正直悩んでいた。広告界の巨匠、仲畑さんの書籍に「コピーライターは人柄が良くないとアカン」と書いてあった。ぼくはスキルのなさを悔やんだとき、その一文にすがるようにして己を奮い立たせていたのに。

それすら消えてしまったのか。結構本気で落ち込んでいた。

そんなある晩、珍しく自宅にいて何気なくテレビを見ていると村上龍と岡部まりがホストとホステス役を務めるトークショーがはじまった。

『Ryu'sBAR』という番組だ。当時、村上龍はいまより精悍なテニスボーイで、岡部まりは深窓の令嬢といった趣だった。

その回のゲストが誰だったか忘れてしまったが、ブラウン管の中の三人のやりとりを見ていたぼくはあることを発見した。

村上龍は決してトークが上手じゃない。岡部まりのアシストがあって会話が進むことのほうが多い。その岡部まりも主導権を握るタイプじゃない。にも関わらず、場は盛り上がるのだ。

しかもゲストが黙ってしまっても、それをそのまま放送していた。ホスト役のふたりは無理にこじあけようとはしていないのだ。

ぼくはそのとき、ある法則に気づいた。それはホストは主役じゃない、という当たり前のこと。ホストはおもしろい話をする必要はなく、ゲストにおもしろい話をしてもらえばいい。それでこそゲストも満足して楽しい時間が流れるのである。

そうか…俺に足りなかったのはこれか。

仕事ができないことで、事務所の中での立ち位置がなくて焦っていたんだ。仕事ができないならせめて他のことで、と間違った方向に努力をしていたんだ。

ぼくは心の中で「わかった!わかったぞ!」と叫んだ。そして早く浜の家でこの法則が正しいかどうかを試したい、とおもった。

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ほどなくしてその機会は訪れた。ある夏の夜、カーレースの仕事がドライバーのクラッシュでペンディングとなり、ボスはもちろん先輩もぼくも一旦作業を止めることになった。

ボスの愛人はこうなるとすぐに「飲みに行こう!」と言い出す。じゃあ行くか、また浜の家でいいか、となった。

その日、なにを食べたのか覚えていない。暑かったのでおでんは頼まなかったはずだ。そうだ、鶏の唐揚げを食べたような気がする。そしてそれは旨かった。つまりその日のやりとりは首尾よくいったのだ。

ボスがしゃべる。愛人が返す。先輩がそれに合いの手を入れる。そしてぼくにパス。ぼくはそれをそのままオウム返しする。あたかも無知なことを蔑んでもらうかのように。そして大げさにリアクションして、話題の主役の気分をくすぐる。またパスが回ってくる。

あれ?いまコミュニケーション成立したんじゃないか?

一度上手くいけばもうしめたものだ。ぼくはこのとき、みんなとのやりとりの上でバカになりピエロになった。そしてついに「ハヤカワくんなんかちょっと変わった?」と愛人に言わせることに成功した。

その日のビールは旨かった。鶏の唐揚げも旨かった。もう大丈夫だ。ぼくはようやく事務所内でのポジションをつかんだ。

しかし、それで万事OKかというとそんなに世の中は甘くない。肝心の仕事ではなかなか一人前になれなかった。

ぼくはそれからも事務所と自宅の往復の生活を送り続けた。24時間ほぼ仕事。月給は11万円。貯金はゼロ。夏はTシャツ、冬はトレーナー。ズボンはボロボロのリーバイス。靴は底が抜けそうなアディダス。クルマなんて夢のまた夢。自転車すら持っていなかった。

将来どうなるのかまったく見通しは立っていなかった。でも不安ではなかった。なんの根拠もないけど、なんとかなると思い込んでいた。

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それから25年。10年ひと昔、が2回と半分。でも体感ではまばたき2回半。

なんとかなったかどうかはわからない。いまだにわからないので、もしかするとなんともなっていないかもしれない。一流の広告クリエイターになりたい、という夢は叶わなかった。コピーライターとして広告賞を総ナメにしてやる、という野望も実にあっけなく潰えた。

それでも、ずいぶん小さな世界ではあるが、お客様に喜んでいただける仕事はできるようになった。会社の看板ではなく自分の名前で依頼を受けることも増えた。家庭も持った。27年落ちだけど、駆け出しの頃にいいなとおもっていたフィアット・パンダも手に入れた。酒の味も覚えた。高級店以外なら旨いメシ屋にも詳しくなった。

だから。

いつか浜の家にも行こう、と思っていたのに。

当時は料理の味もわかっていなかったはず。でもいまなら旨いかどうかぐらいは判断できる。万が一、旨くなかったとしても思い出として笑ってお会計できるぐらいの金もある。

まるでダメダメだった駆け出し時代にひと皮むける機会となった浜の家で、熱燗でも飲りながら当時の自分に会いたいと思っていたのだ。

そう思っていたら、いつの間にかなくなっていた。

ぼくは翌週の休日、ふたたび浜の家跡地を訪れた。まっさらで無表情なコインパーキングにパンダを止めて、いまは亡き浜の家の柱があっただろう場所でつぶやいてみた。

「あれからぼくは、がんばったでしょうか」

『浜の家』はもうない。ボスの消息は誰もしらない。もちろんボスの愛人も。そして彼らもいまのぼくをしらない。たった30年でみんななくなってしまった。もしかすると、もともとなにもなかったのかもしれない。

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