コピーの写経に意味はあるのか?
求人広告だけでなく、ひろく一般の広告のコピーライターにまで浸透しているトレーニング法があります。それが先達の名コピーを写経するというものです。
写経、なんていうとすかさず耳なし芳一が思い浮かぶ日本昔ばなしフリークもいれば、懐かしいな停学中に般若心経100枚写経したなという曹洞宗系仏教高校卒業生もいるかと思います。俺か。
ところが昭和が平成になり、令和を迎えるにあたって、このような非科学的な訓練方法は意味がない、という声があがっているようです。
そんなものよりコピー生成ジェネレーターから出てきた単語を組み合わせてキャッチを作ったほうが効率的だし、効果的だし、生産性も高いし、経済合理性にも優れている。みたいなことを猪口才な青二才が口にする。
あるいは正しいボディコピーには法則があるからその法則に則って書けば誰でもバカ売れのセールスコピーライティングがカンタンに!この一冊であなたも売れっ子コピーライター!みたいな本が跋扈している。
はたまたボディコピーなんかこのご時世誰も読まないよ。でもWebの場合はGoogleに読ませるためにキーワード含有率を意識した長文を書かないと上位表示されないからね。もはや読者は機械というディストピア。
うるさいのである。だまれだまれなのである。
もしあなたが求人広告のコピーライターとして、あるいは求人じゃなくてもいいや。コピーライターとして将来にわたって商業文章書きで生計を立てていきたいのなら。
写経しましょう。必死の写経はいつか必ず役に立ちます。
今回は駆け出しコピーライターにとっての写経とは、という荘厳なテーマでお送りいたします。今回は求人広告制作関係者以外の方にも、もしかしたら職人系のお仕事について日が浅い方にも役に立つ話かもしれません。
写経のポイントは、ひとつのべからずと、ふたつのべし。これを押さえておくことが有効です。
役に立てようと思うべからず
いきなり出鼻をくじいてもうしわけないが、だいたい何かの役に立てようというその根性があさましいわ。と、ぼくはおもうわけです。
というのも「役に立てたい」という意識の中には必ず「できるだけ早く」「できるだけ楽に」という2つの欲望が入ってくるでしょう。
もうね、その時点でダメ。その期待にはまったく応えられない。それが名作コピーの写経なんです。役に立てようというヨコシマな発想がある以上、絶対に早く上手くならない。そして楽に上手くならない。
もうね、写経はあれね。明鏡止水の心境でやらなきゃ。一点の曇りもない心でやるから入ってくるんですよ。指先からコピーが。
別にあやしいクスリをやってるわけじゃないです。宇宙人と交信もしてないし、ムーの読者でもありません。でも指先から先達のコピーが入ってくるという感覚は本当なんです。ここまでやらなきゃって話です。
まっしろな気持ちでコピーの一行、一文字に向き合おうということがいいたいのであります。役に立てようではなく、一字一句味わおうというスタンスです。このあたり『名作コピー読本』に書かれている鈴木康之さんの主張を全面的に肯定するものであります。
ほんものの名作を選ぶべし
せっかく写経するのに駄作、あるいは下手くそなコピーを題材に選んでしまったのでは意味がありません。
つまり名作を見極める審美眼が何よりも大事。もしかすると写経とは作品選びの時点で終わっているのかもしれない。それぐらい成否の鍵を握っています。
ちなみに昔、仲畑貴志さん率いる仲畑広告制作所の入社試験には「良いと思うコピーをその理由とともにあげよ」という問題がありました。
仲畑さんいわく「そいつが持ってくるコピーでセンスのあるなし、伸びるかどうかまでわかる」とまでおっしゃっていました。おおこわ。
でもこれ結構難しい。まず自分の中にコピーに対する良し悪しの基準が必要ですから。良し悪しまではわからないとしても好き嫌いぐらいならなんとかなりそうでしょ。だけど好き嫌いだけではなぜなのか、と問われたときに答えようがないじゃないですか。
だからやはり自分の中にある程度の広告哲学のようなものが必要になるんですよね。
ちなみにぼくの場合は…
①コピーの中に大きな発見があること
②読みやすいこと
③目的を果たせていること
この三つを良いコピーの条件としています。これは商品でも企業でも求人広告でも同じです。
必死でやるべし
とにかく自動書記のように筆を滑らせているだけでは上達しません。そこまでコピーは甘くないんですね。数をこなせばいいってもんじゃない。では何が必要か。
これはもう一にも二にも、必死であることです。
必死とは必ず死ぬと書きます。もちろん死んではいけません。ものの例えです。必死で写経しないといけない。大丈夫です、写経ですから。写経ぐらい必死でやりましょう。それ以外のことは適当でいい。でもコピーを上手くなりたいのなら必死で写経せよ。
ぼくは駆け出しのころ本当にだめなコピーライターでした。どれぐらいだめかというと、コピーをボスに提出する朝になってまだ一文字も書けていない、ということが10回に10回。
もうお前向いてないから故郷に帰れ、なんてフレーズは「おはよう!」ぐらい普通に言われ続けていました。
なんでそんなに書けなかったか。それは書いても書いてもOKがもらえないからです。どれだけ書こうが、何を書こうが、全部否定されます。
そうなるとですね、これがびっくり。筆が1ミリも動かなくなるんですよ。何を書いても全否定。そのなかでペンを動かせるほど神経が太くない。
だけど社員だから仕事をしなければならない。会社のためなら掃除でも洗濯でも料理でもなんでもやりますよ。だけどぼくの仕事はコピーを書くこと。なのに書けない。だけど社員だから(以下10回くりかえす)
当然ですが毎日のようにボスにコピーを提出するお時間はやってくるわけです。そこまで追い込まれると人は何をするか。当時アタマの中を駆け巡っていた単語は「窮鼠猫を噛む」です。
そう、キュウソはとにかくネコに怒られないためにネコの、というかボスの書いたコピーを上からなぞるようになるのです。しかも、命に関わっているわけですから、文字通り必死です。
そんな毎日を繰り返しているうちに、ぼくはすっかりボスの書くコピーにうりふたつのコピーが書けるようになりました。それとともにボスからのNGが減っていきます。
NGが出なくなったその背景にはボスがフィリピーナにハマり、まるっきり仕事をしなくなったからというのも多分にあるのですけどね。
経験者は語る
さて、そんな劣悪な労働環境から夜逃げし、5年にわたる居酒屋店長を決め込んだのち、よせばいいのにコピーライターの職に戻ってきたぼく。
25歳から30歳という、クリエイターとして脂が乗り切っている時期というかインプットもアウトプットもグーンと右肩上がりにレベルを上げることができる年月をすべて酒と肴と競馬と麻雀に費やしたチンピラです。
その間にクリエイティブの環境は大きく変わりました。
もう誰も烏口なんかつかわない。ロットリングもつかわない。原寸大の版下も、スプレーボンドも、日本の伝統色も、紙焼きも、写植も、なにもかもすべてマックという箱の中に入ってしまいました。ぜんぶデザインの話ですけど。
そんな浦島太郎に再びコピーを書く力など残っているのか。
残っていました。
あのときの写経は伊達じゃなかった。ボスのコピーのトーンや言い回し、さらには考え方の癖まで指先から身体の細胞全てに行き渡っていました。
おかげで求人広告という限られた世界ではありましたが、充分に能力を発揮することができた。拾ってくれた会社が一年後に上場するまで成長できたのですが、その原動力のほんの少しぐらいは、ボスのコピーパワーが貢献していると言ってもバチは当たらないんじゃないかと思います。
そう、ぼくの場合はお手本がボスだったのでいいコピーだったかどうかは若干あやしいのですが、きちんと名作を選んで無心で必死にやれば、お手本とするクリエイターのコピーだけでなく広告設計や哲学まで指先から身体に染み込み、あなたを一流のコピーライターに導いてくれるはずです。
がんばれ写経。
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