『平治物語絵巻』3巻のストーリーを、ざっくり解説
『平治物語絵巻』と言えば、現在、絵巻の形で残っているのはは、ボストン美術館にある「三条殿夜討巻」、静嘉堂美術館の「信西巻」、それに東京国立博物館の「六波羅行幸巻(ろくはらぎょうこうのまき)」の3つのみです。
そんな『平治物語絵巻』のうちの「三条殿夜討巻」は、東京都美術館で開催された『ボストン美術館 芸術×力』で展示されました。さらに10月にスタートするトーハクの特別展『国宝 東京国立博物館のすべて』では、「六波羅行幸巻(ろくはらぎょうこうのまき)」が展示されます。
ストーリーとしては、上記2つの間に入る「信西巻」が、当然、10月にリニューアルオープンする静嘉堂美術館で、展示されると思ったのですが……意外にも、今回は見送られるようです。
■『平治物語絵巻』3巻のストーリー
『平治物語絵巻』の流れ=ストーリーをササッと振り返っておきましょう。
『平治物語絵巻』は、平安時代末期の平治元年12月9日に実際に勃発した平治の乱を題材にした、ノンフィクション小説(軍記物)である『平治物語』を、絵巻に仕立てたものです。
その平治の乱は、平清盛が率いる平家が、絶大な権力を握る契機となった紛争です。そのため、平家 vs 源氏という対立軸で語られることも多いのですが、一方で、貴族間の権力争いでもありました。この頃の貴族とは、つまり藤原家のことですね。基本的な対立軸は下記のとおりです。
そのほかにも後白河上皇の院政派と、二条天皇の二条新政派などの政治勢力もありますが、話を単純化するために、そこは省いて考えていきます。
当時の紛争のルールとしては、天皇や上皇という権威を、どちらが囲い込めるかで勝敗が決まります。明治維新も同じようなことが起こりましたが、皇族に手出しすることはできません。
そして平治の乱の勃発以前は、後白河上皇の最側近である(藤原)信西と、新興勢力である平清盛が権力を握っていました。この信西や平清盛を打倒しようと立ち上がったのが、まずい飯を食わされていた藤原信頼や源義朝です。
■三条殿夜討の巻(ボストン美術館の巻)
事件が勃発したのは、平治元年12月9日の夜のことでした。事件の前に、最大の軍事力を誇っていた平清盛が、熊野詣へ出かけ、京を留守にしていました。その間隙をついて、藤原信頼と源義朝が、後白河上皇が住む三条殿を襲撃します。そして後白河上皇は拉致され、藤原信頼と源義朝の神輿となります。
この(旧暦)12月9日夜の事件を絵巻にしたのが『三条殿夜討巻』です。
絵巻では、三条殿が襲撃されたと知って、牛車で駆けつける貴族たちで大混乱しています。極度の混乱で牛車に轢かれてしまう人まで!
藤原信頼《のぶより》と源義朝《みなもとのよしとも》は、後白河上皇を拉致すると、屋敷を焼き、殺戮の限りを尽くします。そして屋敷は炎に包まれ、藤原信頼と源義朝の軍勢により、虐殺が行われています。男も女も逃げ惑い、井戸には死体が累々としています。短刀で敵の首を斬るもの、女性の着物を着た人が壁に隠れる後ろ姿もあります。
そして絵巻の終盤では、藤原信頼と源義朝の軍勢が、後白河上皇を奉じ、いくつかの首級を槍先に刺して、引き上げていきます。
ちなみに藤原信頼は、(藤原)信西と同じく、後白河上皇の寵愛を受けていました。可愛がられていたのです。クーデターの夜、拉致された後白河上皇は、藤原信頼《のぶより》によって、二条天皇が居る御所へと移されます。
■信西の巻
『三条殿夜討の巻』では、藤原信頼と源義朝が、後白河上皇の院御所である三条殿を夜襲しました。この12月9日夜の襲撃では、(藤原)信西は逃げおおせています。
静嘉堂美術館所蔵の『信西《しんぜい》の巻』は、翌日の12月10日からの話になります。前日に夜討ちをかけた藤原信頼が中心となって、公卿会議が開かれ、(藤原)信西《しんぜい》一族の追補が決定されます。絵巻には描かれていませんが、(藤原)信西の4人の子どもたちは、この10日に捕縛されます(22日には4人全員の配流が決定します)。
逃げた(藤原)信西は、山城国……いまの奈良県……の田原という場所にまで到達しました。12月13日のことです。その山の中で追っ手から逃れようと、土の中に埋めた箱に入って身を隠していました。ただし、すぐに発見されて、掘り起こされる音を、真っ暗な箱の中で聞いた(藤原)信西《しんぜい》は、みずから喉を突いて自害しました。
『平治物語絵巻』の『信西の巻』では、掘り起こされた血だらけの(藤原)信西が表現されています。
藤原信頼と源義朝の軍勢(前出雲司源光保)は、切った信西の首を槍(薙刀?)の先に刺して、京都へ戻っていきます。
場面が変わって、前出雲司源光保の屋敷前です。クーデター首謀者の藤原信頼が、公家のクルマである八葉車に乗ったまま、討ち取ったのが確かに信西の首なのか、首実検(確認)をしています。
信西だと確認が取れると、前出雲司源光保が、今度は庶民や公家たちが道の脇から見守るなかを、都大路を獄門へと向かいます。
そして最後の場面では、獄門の屋根の棟木《むなき》に架けられた信西《しんぜい》の首を、みんなが見ているシーンです。画質が粗く、どこにあるのか分かりづらかったのですが、絵巻に描かれている人たちの視線を追っていくと、たしかに信西の首が架かっていました。
■六波羅行幸の巻
静嘉堂美術館所蔵の『信西の巻』では、藤原信頼と源義朝のクーデターが成功したかのようです。そこから平清盛が巻き返しを図っていくのが、トーハク所蔵の『六波羅行幸の巻』です。
京での異変を知った平清盛は、熊野詣から急いで戻ります。そして二条天皇を六波羅《ろくはら》の自宅へと脱出させるのです。タイトルの『六波羅行幸』とは、天皇が六波羅へ出向かれるということです。
まず最初の場面では、源義朝の部下たちが、御所へ乱入して三種の神器の一つである“神鏡”を蔵めた唐櫃を強奪しようとしています。御所のスタッフたちが慌てふためき、逃げています。
天皇の住まう御所=内裏は、源義朝の軍勢によって取り囲まれています。その中を二条天皇は、平清盛の屋敷や脱出を図ります。そのまま出かけていっては、源義朝の軍勢に見つかってしまうので、女装したうえで公家用のクルマである八葉車に乗って、御所を出ようとします。
すると源義朝の配下(郎党)に怪しまれます。平清盛方の公卿がクルマを取り調べようとする武士に「お〜い、そのクルマには女性しか乗っていないぞよ」と言っています。そしてクルマの中を覗き込んだ武士は「たしかに女性しかいないな」と勘違いして、二条天皇の乗るクルマを通してしまいます。
二条天皇が六波羅に向かう途中で、平清盛の長男・平重盛と合流。守られながら六波羅に到着します。
二条天皇などが六波羅へ到着すると、平清盛の屋敷=六波羅は、まるで御所のような雰囲気になります。平清盛は、鼻高々で笑いが止まらなかったことでしょう。その噂は公卿や殿上人の知るところとなり、続々と六波羅に集結しました。平清盛は、天皇という最高の権威を手中にしたのです。
一方、クーデターの首謀者だった藤原信頼は、二条天皇が平清盛の屋敷・六波羅に入ったことを知り、慌てます。成功したかに思ったクーデターが、失敗してしまったのです。
この『平治物語絵巻』に関連するストーリーをさらりと読んでいった限りでは、「平清盛……策士ですね」という感想を持ちました。というのも、そもそも平清盛くらいの人であれば、藤原信頼や源義朝が不満を抱いていて、その不満が爆発寸前だったことは察していたはずです。自身の軍勢が京を離れれば、彼らがクーデターを起こすだろう……少なくとも、起こすかもしれないとは思っていたはず。それにも関わらず、そうした危うい時期に、熊野詣などという……いわゆる旅行へ、今の和歌山まで行ってしまうのです。むしろ蜂起するように仕向けたようなものでしょう。
そして藤原信頼や源義朝は、三条殿へ夜討をかけます。平清盛としては、盟友の(藤原)信西が自刃に追い込まれたことも幸いだったでしょう。なぜなら、政敵の藤原信頼を排除できた暁には、二条天皇や後白河上皇に影響力を持つ信西《しんぜい》やその一族は、平清盛にとっても邪魔な存在だったでしょうからね。
そして熊野詣から急いで戻った平清盛は、六波羅に二条天皇を迎えることに成功。公卿や軍勢を整えて、12月27日に戦いが始まります。源義朝の軍勢は壊滅し、尾張まで落ちのび、野間という地で討ち取られてしまいます(美智の墓は野間大坊……大御堂寺にあります)。
この平治の乱の後は、平清盛が御所を掌握。その後の話は、『平家物語』で語られることになり、『愚管抄』へとつながっていくのです。
それにしても一つ不思議なのは、『平治物語絵巻』が、鎌倉時代の中期に作られたことです。当然、鎌倉時代と言えば、源氏の世の中です。平治の乱で敗れた源義朝の子どもたちが、源頼朝を中心にして結集して、平家を滅亡させた後のこと。なぜ、源義朝が悪役のように思われかねない『平治物語絵巻』が成立したのでしょうか。
その点は、また機会があれば検証してみたいと思います(おそらく誰かがすでに指摘していることでしょうしね)。
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