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“男爵いも”の男爵が集めた刀剣……ほか本多忠勝の蜻蛉切(写し)など −東京国立博物館の刀剣 2023年11月中旬−

戦国や幕末史が好きなわたしは、当然、刀剣も好きです。なのですが、『刀剣乱舞』から発した刀剣女子のように、マニアックな刀剣ファンではありません。幼い頃はチャンバラ好きで、観光地で売っている木の刀のお土産を買ってくれるよう、毎回のように親に頼んではいましたが(結局、一度だけ買ってもらいました)、今現在、自宅に刀剣をコレクションして、刀が放つ妖しげな光にうっとりする……といったことは想像できません。

そんなわたしですが、これはちょっと、かなり好みの刀だぞ……なんて思ったひと振りが、東京国立博物館(トーハク)に展示されていました。


■男爵いも男爵の刀剣コレクション

これはずっと眺めていられるかも……と思ったのは《刀 長船祐定すけさだ》でした。作られたのは室町時代後期の大永三年二月吉日……1523年のことです。

これだと時代をイメージしづらいので、少し分かりやすく言うと、徳川家康の祖父・松平清康が、13歳で家督を継いだ年になります。種子島に鉄砲が伝来するのが、この20年後の1543年。まだまだ戦場では、石を投げ合ったり、弓を打ち合ったり、あるいは刀槍で突き刺しあっていた頃でしょう。

そうした時代には、まさに《長船祐定すけさだ》のような刀が好まれたはずです。

《刀 長船祐定すけさだ》室町時代 大永3年(1523)・川田龍吉氏寄贈
銘 備前国住長船与三左衛門尉祐定作 大永三年二月吉日

全体は短めですが、展示ケースに顔を近づけてみると、そのブッとくて、ズシッとした重量感が伝わってきます。専門家っぽく語れば「本作は大鋒おおきっさきで身幅が広い豪壮な姿……」うんぬんとなります(解説パネルより)。そう、革製の鎧などでも突き刺せたでしょうし、何度刺しても曲がったり折れたりしなさそうです。また棍棒のように振り回すだけでも、重い刀は遠心力で勢いづいて、敵をなぎ倒せたかもしれません(ちょっと短すぎるかもですけど)。

大鋒おおきっさきとは刀の先端部分が長いことを言います。具体的には、5cm以上の切先のことを指すようです。《長船祐定すけさだ》の場合は、大鋒おおきっさきなだけでなく、このあたりから刀身が肉厚な感じがしました。いわゆるしのぎが高いとも言えるんじゃないかと。なんというか……今でも何匹ものマグロをサッサッサッと解体できそうな雰囲気です……ゾクっとしますね。

刃文もきれいで、特に上の写真の右端あたりにクワッと乱れた刃文にグッときます。解説によれば「冴えた直刃すぐはに、乱刃みだればを交えた刃文を焼入れている」と書かれています。うん……よく分かりませんが、真っ直ぐな刃文に、波や炎のような乱れた刃文を(後から?)焼入れしたもの……という感じでしょうか……いずれにしても良い感じです。

この手元近くのズンッと重そうな雰囲気には、ググッときます。鍔迫り合いつばぜりあいとなっても相手の力をガッシ! と受け止めるだけでなく、跳ね返してくれそうな力強さを感じます。

ただ一点気になったのは、全体が短めであったことです。どこかに長さについての言及がないか、国立国会図書館で資料をあたってみましたが、見つけられませんでした。ちなみに解説には「片手での抜打ちに適している」としています。短いというと、屋内戦闘用かな? なんて思ってしまいますが、どうでしょうか。

■こちらも男爵いも・川田龍吉コレクション《関兼元》

《長船祐定すけさだ》の隣には、《刀 関兼元(銘 兼元)》がありました。こちらもとっても魅力的で……寄贈者を見たら川田龍吉さんだったので、わたしは彼と好みが合うなと思いました。とにかく頑丈そうで力強さが感じられ、戦国時代の戦場などで、刃がボロボロになっても打撃武器として使い続けられそうです。

《刀 関兼元(銘 兼元)》室町時代・16世紀・川田龍吉氏寄贈

解説には関兼元せきのかねもとさんは、「美濃国(岐阜県) 室町時代後期に栄えた関鍛冶の代表格で、とくに二代兼元は 「関の孫六」の名で知られます」と記されています。

おぉ〜「これが、あの関の孫六ですかぁ」なんて知った風に思いつつ、なんで聞いたことがあるかと言えば、おそらくホテルや旅館で最も置いてある使い捨てT字カミソリが貝印という会社のものです。その貝印の包丁ブランドに「関孫六せきのまごろく」があるからです。

そのブランドサイトを見ると、「受け継がれる、名刀の業と心。」とタイトルが出てきますが……どこまで、あの関の孫六を踏襲しているのかは不明です。

トーハクの《刀 関兼元》に話を戻すと、「兼元の2代目が“関の孫六”の名で知られる」と記されているものの、この刀自体が、その2代目の作なのかについては触れられていません……まぁその辺はハッキリしないのかもしれません。ただし、かつての大名家などから寄贈または購入された、中世以降の刀剣だけで(単なるわたしの推測ですが)何百振も所蔵しているだろうトーハクが、専門家から見て優品ではないものを、わざわざ1階に展示することもないはずです。そうとなれば、こちらの《刀 関兼元》も、兼元の2代目なのかは分かりませんが、いずれにしても素晴らしい作品なのでしょう。

ということで、もう少し関の孫六のことが知りたくなって、国立国会図書館を調べていたら、大正元年に出版された、羽皐うこう隠史という方が著した『英雄と佩刀』がありました。この文が面白かったのですが、長くなりますので一番下に書き記しておきました。コチラ↓↓↓↓↓

■本多忠勝の槍として有名な《蜻蛉切》

1階の刀剣展示室は、最近、ものすごく混んでいます……ということで、できるだけ空いているだろう2階の展示室へも行ってみました。

そこにあったのが……現在、NHK大河ドラマ『どうする家康』で大活躍している本多忠勝が、いつも携えている槍……《蜻蛉切とんぼきり》……のうつしです。うつしとは、絵画でいう模本や模写のようなもの。そっくりさんを作ったわけです。

大笹穂槍おおささほやり(蜻蛉切写)》固山宗次

このそっくりさんが作られたのは、江戸時代後期の1847年のこと。作ったのは、白河藩・久松松平家のお抱え刀工の固山こやま宗次さんです。ちょうど松平定信さんの時にも仕えていたそうなので、南宋画の谷文晁たにぶんちょうさんや、定信に命じられて洋式銅版画を学んだ亜欧堂あおうどう田善でんぜんさんなどとも知り合いだったかもしれません。

<過去note>
谷文晁たにぶんちょうコチラ
亜欧堂あおうどう田善でんぜんコチラ

その松平定信さんの後に、久松松平家は桑名に転封となります。つまり、《蜻蛉切とんぼきり》のある本多岡崎藩に近づいたわけです(1769年から幕府終焉の1868年までは、本多の平八郎家…忠勝家が岡崎藩でした)。とはいえ、実は固山こやま宗次は、江戸で刀を作っていたようなので、この藩同士の距離が、蜻蛉切とんぼきりの貸し借りに関係したかは分かりません。またおそらく蜻蛉切とんぼきりは門外不出だっただろうから、見に行ったかもしれませんが、借りられはしなかったでしょうね。

とにかく久松松平家が桑名へ移った後の1847年に、この《蜻蛉切とんぼきり》の写しが作られました。

ちなみに、なぜこの写しが1847年に作られたと分かるかと言えば、その年(弘化四年)に作ったと刻まれているからです。

銘 世傳蜻蛉切効正真作 形摸而固山備前介藤原宗次鋳之 于時弘化四年丁未年八月 同年十月三日於千住眉間数多突通返良業突手山田吉利

世に伝わる(藤原)正真が作った蜻蛉切の形を模して、固山の備前介・藤原宗次が之を鋳造。弘化四年(1847年)ひつじ年八月。また同年十月には(江戸の)千住に於いて何度も数多眉間を突き通し、優れた業物であると証明された。試したの突手は山田吉利。

山田吉利とは山田浅右衛門のことで、代々の御試御用という、刀剣の試し斬り役を務めていた家を継いだ人です(養子)。

記されていることを見ると、千住とは、現在は南千住と呼ばれる小塚原にある刑場のことでしょうね。穢多えたを束ねていた頭(かしら)の弾左衛門が管理していただろう小塚原刑場(こづかっぱらのけいじょう)です。山田浅右衛門は、試し斬りもしていたし、死刑執行人も兼ねていました。

蜻蛉切とんぼきり》の写しが完成し、固山さんが、知り合いだった山田吉利さんに「また試し斬りしてもらえるかね?」とお茶をすすりながらお願いし、山田吉利さんが「うけたまわった。ちょうど来週、できそうです」……なんて会話をしたかもしれません。

そして死刑執行された遺体なのか、まだ生きていたのか分かりませんが、とにかく死刑囚の眉間(だけ?)を、トーハクに展示されている《蜻蛉切とんぼきり》の写しで、何度か突いたのでしょう。

医師で、西洋の医学書『ターヘル・アナトミア』を『解体新書』として和訳した前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)も、同じ場所……または“ほぼ”同じ場所で、罪人の腑分け(解剖)を見学し、『ターヘル・アナトミア』に描かれている解剖図が、正確なものなのかを確認しています。

<関連note>
浅草の歴史に欠かせない『弾左衛門さん』という存在

ちなみに《蜻蛉切とんぼきり》の本物の方は、現在、静岡県三島市にある佐野美術館に寄託され、展示されているそうです。

■明智拵など

以下、まだまだたくさんの刀剣が展示されていますが、整理が追いつかないので、ほかは写真だけ残しておきます。

その中の明智こしらえだけは、過去にも記したことがあるので、興味があればそちらを…。

<過去note>
明智光秀や光春が使っていた……かもしれない「明智拵」



鍔が三つ葉葵っぽい

■『英雄と佩刀』の中で語られている関の孫六

大正元年に出版された本に、羽皐うこう隠史という方が著した『英雄と佩刀』があります。同氏は明治から大正にかけての刀剣研究家。様々な武将と佩刀との逸話を記した短編集なのですが、その一項に『山内忠義の関の孫六』というのがあったので、ここに全文を記しておきます。
※以下は例えば「へ→え」「ふ→う」や「小供→子供」などと、現代でも読みやすいよう変更していますが、基本は原文ママです。

 関の孫六いえば子供でも大業物なる事を知っている。また世人は兼元の銘があるとすぐ『孫六のか?』と思う。(だが、)孫六というは三人ある。三人の中で最もよく切れるのが明応より永正頃の兼元である。
 兼元と銘を切る刀匠は、新刀古刀で(あわせて)六人、最も古いのが嘉吉・文安年間ごろの関口太郎左衛門兼元と称した人がある。はじめ“基”また法名を“清閑”というこの刀は古色を帯びた品位のある出来で多く二字銘、これは業物(わざもの)、次に兼基の子に兼元という人がある、初代・和泉守いずみのかみ兼定の門人で通称・孫六という、(この初代の孫六は)兼定の子・二代和泉守いずみのかみ兼定(之定)と兄弟のちぎりを結んで互いに修業したこの二人は鍛錬法に於て多少発明したところがあるもの思う、何故なぜとなれば、この時代は関鍛冶追々おいおい退歩たいほして、また兼延かねのぶ、兼久、兼則の如き上手がいなくなった、その間に二人は掉尾の傑作最後の傑作と言われるほどの名作を打ち出したから他の鍛冶中において燦然さんぜん一頭角を現したように見える、この人は明応より永正までの人で、これを最上大業物なす孫六の中では、これに及ぶ人はない。
 二代目も孫六という兼元と二字に切る初めは兼茂と打ち父が死んでから兼元となった、これが大永、享禄の間で大業物、三代目は不破郡に住した是も二字銘に切るやはり孫六と称すこれも大業物、以上三人のうちに初代を第一とし二代を次とし、三代をその次とす。この三人がどれもどれも切れ味が優れたために孫六の名が天下に轟いたのである。
 兼元と二字に切る人が永禄ごろにある、これも関の住、これは上手ではない、これより新刀の兼元であるが銘鑑には濃州赤阪住 田代源一というが兼元と切る寛永のころとあって一人出て居るが、元は孫六の子孫代々同銘で、その子孫に問へば十六代続きたりという、美濃の関の人にたずねてみたるに兼元は●幕時代には代々あったが皆な平凡であったと答えた。そうしてみれば今世上にたくさんある兼元はこの代々の平凡な人の作であろうか。兼元の二字銘の刀をたびたび見るが良いのは至って少ない。
 二代孫六の刀は孫六の中の優物であるが、この刀は極めて少ない、先年に徳川慶喜公より拝領の刀で曲淵甲斐守といった江戸町奉行の佩刀を、われら一時持っていたが、仔細いろいろあって人に譲った、これが二代の孫六である。また天正・慶長の頃有名な青木新兵衛が差したのが孫六で、これが非常の業物。この新兵衛は名誉の武功談が多い(この傳は追記す)から土佐の山内忠義(二代目)が佩た仮名かな銘孫六という名刀がある、二尺三寸五分ほどで、仮名で「かなもと」と切ってある、忠義は至って剛毅な人で、常にこの孫六を離さず差していて、立腹すると孫六で手討にする、家来が前へ出て何か気に入らぬ事を言うと、ハタと睨んで「孫六をまへるぞ」と一喝する……抜き打ちにやられては、たまらぬから驚いて退くという有名な刀である。
 ある時高知の城下荒倉山で猪狩をした時、忠義も出馬して大勢の勢子せこに山を狩立かりたてさせた、一番手、二番手、三番手と組を立てて忠義も鉄砲を持って三番手に控えている、この時に家老がモシ殿様に過失あやまちがあってはと忠義の背後へ老練な猟師を隠しておいて殿様危うき時はイノシシを打ち留めよと命じておいた、そう致すとおいおい狩り立てて来る、果して一匹の大イノシシが手負になって荒れに荒れて飛んで来た、忠義は大イノシシを近くへ引寄せて打ち留めようと狙いを定めて筒をためしていると背後より轟然と一発打ち出した鉄砲が見事に命中して大イノシシはたおれた、忠義は大いに怒ってうしろを見ると老人の獵師がいる、(山内忠義は)「おのれ憎い奴! 孫六をまえる!」と柄へ手を掛けると(猟師は勘違いして)「ハイハイ、ありがとう存じます」と御褒美の心得で両手を出した、手を出されて見れば切るわけにもゆかず、ソコへ家老が駆けて来て「用心のために、この者を差し置きました」と委細を申し立てたから、忠義も致し方がない、その獵師はまだ手を出している、そこで忠義も笑い出した、「余が『孫六をまへる』と言うたは、そのほうを手討ちにするつもりじゃった。(それを)手を出したは妙な奴、しかしこの孫六は秘蔵であるから(褒美に)遣わすあげるわけにはいかぬ。コレコレ…誰かある! 差換予備の刀を持て」と言うので、近習が刀筒へ入れて持っていたその御刀をその場で拝領、首の飛ぶところ吉凶一変して名刀拝領と来た、このおやじは運のよい男だ。

以上のように、山内忠義が本当にこんな豪傑というか、パワハラ大名だったかは今となっては不明ですが、関の孫六に関しては、ほかにも赤穂浪士の大石内蔵助良雄は関の孫六を佩刀していたとか、加藤清正が朝鮮半島で虎退治した時に使ったのが関の孫六だったとか、様々なエピソードで登場することで「関の孫六」が一大ブランドとなったようです。ではなぜ関の孫六だったかといえば、実際に実戦向きの名刀が多かったのと、明治大正当時は、陸軍などの軍人が佩刀していましたが、この拝領の刀として……つまりは公認の刀が「関の孫六」だったためではないかとも思います。

「関の孫六すごい!」→「そんな関の孫六を佩刀している陸軍士官は最強に違いない!」みたいなことかなと。


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