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浅草の歴史に欠かせない『弾左衛門さん』という存在

日本のどこに住んでいても、歴史を感じられるものですが、東京の台東区たいとうくは、特に江戸の歴史が満ちているエリアな気がします。

台東区といえば、「台東区」よりも有名な地名が、「浅草」でしょう。台東区を聞いたことがなくても、浅草は聞いたことがある…または行ったことがあるという人が多そうです。で、浅草と言えば、浅草寺と浅草神社。そもそも浅草寺や浅草神社が、なぜこれほど隆盛を誇っているかといえば、もちろん江戸=東京で古い由緒を持っている寺であり神社だからです。ただ、もう一つ重要な要素として、江戸時代は、江戸城の北東…つまりは鬼門にあたるエリアだったことが挙げられます。

鬼門とは何かをネット辞書で調べると「何をするにも避けなければならない、艮(うしとら)(=北東)の方角」とあります。そんな鬼門に何を置けば良いかを調べると、あるサイトには「鬼門の凶作用を和らげる置物を設置 鬼門からの邪気をさえぎる、青龍や麒麟、猿の置物を、玄関や鬼門の方角に設置すると凶作用を和らげると言われます」とあります。そこで……なのか知りませんが……浅草あさくさには金龍山きんりゅうざん浅草寺せんそうじが建てられました。

日光に家康を祀る東照宮が建てられたのは、日光が江戸の鬼門にあたる方角にあったからと言います。同様に、江戸城の鬼門にあたる浅草寺の境内にも、徳川家の直営ともいえる東照宮が建てられました。(それに、同じ台東区にある上野の山にも上野東照宮が建てられ、現在まで存続)。それだけ重要なエリアと考えられていたわけです。

そんな重要な場所だったのですが……いや、鬼門だったからこそ……かもしれませんが、浅草には、士農工商から外れた穢多(えた)が本拠地とした場所がありました。そして、これは確実に言えることですが、だからこそ、浅草は今も人が絶えず繁栄しているんです。

なお、今回のnoteでは穢多を中心に記しますが、詳しい方が読むと「穢多と非人の違いを分かっていない」と思われるかもしれません。また、穢多や非人と言っても、各地で制度が異なります。ここでは江戸を中心とした関八州における、穢多の概要をまとめています。


■穢多(えた)は何を仕事にしていた?

この穢多(えた)ですが、関東で育ったわたしは、中学生の頃に歴史の時間で、初めてその言葉を聞きました。士農工商…穢多・非人。わたしの育った環境に限って言えば、穢多も非人も、歴史の授業で聞く以外に、普段の生活の中で使われることはありませんでした。現在、かつて穢多や非人が住んでいたエリアの近くに住んでいますが、同エリアを避けて通る……なんてことも全くありません。そうした意味で、関東……特に都内では、穢多や非人という概念は完全に消滅しているような気がします(あくまでわたしの認識です)。

その穢多を束ねていた頭(かしら)、弾左衛門が住んでいたのが、浅草寺の裏っかわ……北東に少し歩いたところでした。

『江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(部分)』(人文学オープンデータ共同利用センターより)
地図の手前が浅草寺。右上の白いエリアに「穢多村」と記されている部分に、弾左衛門の屋敷がありました。文字が下(南)から上(北)に記されているので、おそらく屋敷の正門が南側にあったのでしょう

穢多の代表的な職の一つは、牛や馬の死体の処理……皮の加工です。これらは穢多の特権で、江戸時代の全般、明治に至るまで、穢多以外の人たちには許されないことでした。少なくとも弾左衛門が支配した、日光東照宮と水戸藩、喜連川藩などを除く、関八州(関東の八カ国ですね)では、穢多の特権だったんです。

そのため江戸時代は、浅草の奥エリアで皮をなめして、革製品が作られていったのでしょう。時代が明治になると、弾左衛門は革靴製造工場を設立します。これも、そもそも牛馬の皮を剥いで加工できるのが、穢多の特権だったから興した事業です。結局、この事業は長く続きませんでしたが、特に弾左衛門の屋敷のあった周辺を中心に、台東区の全域で今現在も、革の加工品製造が盛んです。あるエリアを歩けば、なめし業の工場(こうば)がちらほらありますし、浅草橋あたりには革を売っている店が多数あります。うちの近所には、革製品を作るのにも欠かせない、工業用ミシンを修理する会社がいくつかありますし、浅草寺界隈には革製品全般の店が多数あり、蔵前のあたりは明治大正期に起業した(元は革製だったろう)大小のバッグ屋さんがあります。また、かつて弾左衛門の屋敷があった周辺は、革靴メーカーや革靴を作る専門学校などもあります。靴ではありませんが、人気のある吉田カバンの関連するミニ博物館があるのも、偶然ではないでしょう。

なぜ、そんなに革にまつわる職業の人が、たくさん集まっているかと言えば、かつて代々の弾左衛門さんが居たから、としか言いようがありません。

そんな弾左衛門さんが、穢多(えた)をたばねるリーダー、穢多頭(えたがしら)として様々な利権を握ることになり、一気に力を持ち始めたのが、徳川家康が江戸に入府した時です。もともと、穢多を束ねる小さなリーダーではあったようですが、その支配エリアを、前述の関八州にまで拡大したのは、徳川家康が許可したからだそうです(正確には今の福島や山梨、静岡の一部も弾左衛門エリアだったようです)。

では、そもそも被差別身分だったという穢多とはなんだったのでしょう? 以下は、弾左衛門支配下の関東の場合ですが、穢多が従事した主な職業をみていきます。

まずは前述したとおり斃牛馬の処理と獣皮の加工や革製品の製造販売などの皮革関係の仕事です。そのほか、刑吏・捕吏・番太・山番・水番などの下級官僚的な仕事に就きました。

また、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配(芸人・芸能人を含む)、草履や雪駄作りとその販売。ロウソクの灯心などの製造販売。作るのに高度な技術を必要とした織り機の部品「筬(おさ)」の製造販売。竹細工の製造販売など、多様な職業を独占していたといいます(以上はWikipediaを参照)。

こうした穢多が担った職を見ていくと、幅広いことが分かります。「斃牛馬の処理と獣皮の加工や革製品の製造販売」というのはイメージしやすいですが、刑吏・捕吏・番太も担っていました。刑吏や捕吏ということは、与力・同心の、特に同心が私的に雇った、御用聞きや目明かし、下っ引きなどでしょうか。番太については、門番ですね。江戸時代は都市ごと、江戸の市中には町ごとに門があったそうで、番太は夜警などを担っていました。また、草履や雪駄を作ったりしていたということで、職制としては、もう一般の町人と何が異なるのか? という感じさえします。

■引っ越しを重ねた弾左衛門さん

その弾左衛門さん、徳川家康が小田原攻めの後に豊臣秀吉に言われて、江戸にやってきた頃には「矢野弾左衛門は日本橋の尼店(あまだな)によしの原(のちの吉原)があり、その高みのあたりに住まいをもっていた」松岡正剛さんは記しています。日本橋の尼店とは、現在の日本橋室町むろちょう1丁目にあたります。そして徳川家が江戸に入り、江戸城周辺に旗本などの屋敷を作り始めた時に……

「ちょっと弾左衛門さん。悪いけどアンタ、鳥越のほおへ移ってくれねえか?」

そう家康さんなのか、重臣に言われたそうです。それでゴネたらしいのですが、結局は「しゃあねえなぁ」と移った先が、現在の台東区にある鳥越です。鳥越神社の例大祭と言えば、江戸の三大祭りでも有名です。その後、大火事だかを契機に、さらに浅草神社の裏っかわ……縁結びの神様で昨今は女性に大人気の今戸神社の近くに引っ越しました。弾左衛門さんの屋敷は「浅草新町(しんちょう)」という名前で、江戸時代の地図にも記されています。また地図によっては「穢多村(えたむら) 云く浅草新町」と記しているものもあります。

『江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(部分)』(人文学オープンデータ共同利用センターより)

屋敷の広さは、ちょっとした大名レベルです。弾左衛門さんや、家臣にあたる手代が住む居宅の他に、穢多を裁くお白洲があったり、役所や役宅、穢多用の銭湯みたいな湯屋もあったそうです。実際に穢多頭の弾左衛門さんは、大名や旗本、御家人とは異なりますが、士農工商の士にあたり(諸説あり)、刀も二本差しでした。それでいて、前述したように牛の皮を剥ぐ権利を有していたし、馬の死体の処理も任され、さらに金貸しもしていたそうで、その財は数万石の大名級でした。

この今戸という場所は、山谷堀という隅田川に流れる堀がありました。今は、かつての山谷堀に沿って、細長〜〜い、公園になっています。弾左衛門の屋敷の目の前に堀があり、向こう岸には、池波正太郎の生誕地としても知られる、待乳山(まつちやま)聖天があります。堀には、小舟がたくさん行き来していて、賑わっていたはずです。

なぜ賑わっていたかと言えば、この山谷堀を奥へ進んで行くと、江戸の公営風俗街である吉原遊郭があったからです。もちろん上野や浅草の方から歩いて吉原へ向かう人も多かったようですが、旗本や大名の重臣、羽振りの良い商人などは、船で行った方が知り合いにも会わずに、吉原へ行けるからです。

『江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(部分)』(人文学オープンデータ共同利用センターより)

葛飾北斎が「隅田川両岸景色図巻」で描いたのは、そうした、舟で吉原に向かう人たちが見た、多くの人が憧れる景色だったのです。

■弾左衛門さんと吉原遊郭や歌舞伎座

その吉原遊郭ですが、元から浅草の裏っ側にあったわけではありません。江戸のはじめには日本橋の…今の人形町(?)にありました。地名が日本橋だから、人形町と言えば日本橋から歩いて行くと近いのか? と言えば、歩いても行けなくはないですぜ…というほどの距離です。そして先述した弾左衛門が屋敷を構えていた「日本橋の尼店(あまだな)に葭の原(のちの吉原)があり…」というのが、元吉原です。それが明暦の大火(1657年)で焼失し、江戸の再編が行われたのを期にして、今も名残が残る浅草裏の日本堤へと移ったのです。これが新吉原。現在「吉原」と呼んでいるのは、ここでいう新吉原のことです。

まぁもしかすると、弾左衛門さんちからも近いし、江戸城からも程よく離れている……当時は人里離れた場所だし……遊郭を作るのに最適だと考えられたんでしょうね。

ちなみに、弾左衛門さんと同じように、江戸時代には様々な人たちが、江戸中を引っ越ししました。明暦の大火の時もですが、ほかの時期にも、大名を筆頭に、多くの人たちが引っ越していたんです。

その中でも弾左衛門家と関わりが深い代表事例が、歌舞伎です。今でこそ想像しにくいのですが、江戸の中頃(1708年)までは、歌舞伎は弾左衛門の支配下にある職業でした。

江戸歌舞伎は、中村座が今の京橋近くに出来たのを始まりとしています。1624年、初代の中村勘三郎こと猿若勘三郎によるものでした。1633年には今の日本橋堀留町へ、1651年には今の日本橋人形町へ、そして江戸後期の1841年には浅草聖天町……つまりは弾左衛門屋敷のある新町の隣町に移転。この時には歌舞伎三座を含む5つの芝居小屋が集められて、町の名前も猿若町と改められました。

『江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(部分)』(人文学オープンデータ共同利用センターより)
青丸のエリアが中村座、市村座、河原崎座などの歌舞伎、浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座などの小屋が集められた場所で、青い星が弾左衛門の屋敷です

現在の地図と重ねると、ちょっと距離感がおかしくなるので、アプリ『大江戸今昔めぐり』で、同じエリアを見ると、下のような感じです。

アプリ『大江戸今昔めぐり』
上の地図と同様に、青丸のエリアが中村座や市村座などの歌舞伎小屋が集められた場所で、星が弾左衛門の屋敷です

特に中村座は、今でも浅草の地を大事にしていて、ちょうど今の季節になると、浅草寺の北側にあたる観音裏エリアで、平成中村座を興業しています(毎年場所が異なりますが、今年は浅草寺境内の本堂の真裏に小屋を建てていますし、数年前には弾左衛門さんの屋敷のすぐ近くの隅田川沿いに小屋を建てていたこともあり「平成中村座発祥の地」という石碑があります)。

いつもは観光バスの駐車場になっている、浅草寺本堂の真裏に平成中村座があります(期間限定)

↑ ぜんぜん関係ありませんが、先週たまたま前編の再放送を見たNHK『中村仲蔵』がとっても面白かったです。中村勘九郎が主演で、中村七之助も出ています。

江戸東京博物館の中村座(もちろん復元・2021年末撮影)

■弾左衛門さんと『男はつらいよ』と『あしたのジョー』

話を戻すと、その猿若町の程近く、弾左衛門屋敷の目の前にある山谷堀沿いを上って行くと、吉原の大門(おおもん)が左手に見えてきたはずです(今は交差点名としてしか残っていません)。吉原は堀で囲まれていたことで有名ですよね。山谷堀の方から、くねくねっと曲がった道を進むと大門があって、吉原の四方を囲む堀の内側が遊郭です。真ん中の道をずんずん進むと、反対側の堀がありました。堀の向こう側には弾左衛門の部下というか、支配下にあった、非人の屋敷がありました。堀の向こう側とはいえ、なぜ吉原遊郭に隣接して、非人の屋敷や施設があったのか…というのは、想像に難くありません。

またWikipediaを読むと、新吉原は浅草田んぼに作られたことや、その埋め立てや造成など、実際の作業にあたったのは車善七が率いる3,000人の非人だったことが記されています(『吉原はこうしてつくられた』西まさる著)

『江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(部分)』(人文学オープンデータ共同利用センターより)
青星「弾左衛門さんの家」、ピンク星「吉原」、水色星「車善七さんの家」、緑星「浄閑寺」、赤星「小塚原刑場(仕置場)」

その浅草エリアの非人の仕切り役・非人頭が、車善七です。ちなみに初代の車善七は三河国渥美の出身です……って、年配の方なら「え?」って、なるかもしれません。『男はつらいよ』の主人公・寅次郎は渥美清さんが演じていましたね。まぁ偶然でしょう……かね。

さきほどの吉原大門の前を流れていた、山谷堀まで戻りましょう。ちなみに現在は山谷堀の公園は、この手前で切れていて、土手通りという大きめの道に合流します。吉原大門を出て、その土手通りを左に曲がると、すぐに土手の伊勢屋という老舗と言われる天ぷら屋さんがあります。その隣と向かいには有名な桜なべ屋さんがあり、そのまた隣の隣には馬肉屋さんがあります。この桜も馬肉も、同意語ですね(江戸時代には禁じられていた肉食。桜は馬肉の隠語だった…という説もあります)。

この『桜なべ 中江』さんは明治38年の創業。馬肉屋さんの方の由来は知りませんが、馬肉を食べると精が出るとかで、この辺には明治期から桜肉=馬肉の店が多かったそうです。

で、その馬ですが……江戸時代に死んだ馬を処理できるのも、前述の通り穢多の特権でした(『桜なべ 中江』さんの創業当時は、そうした縛りはありませんでした)。つまり、江戸では弾左衛門さんの配下が、処理していました。

ちなみに……今回の話とは全く関係ありませんが……『中江』の隣には、これまた明治期に創業した『伊勢屋』という天ぷら屋さんがあります。「土手の伊勢屋」として有名です。こちらは「系列店及び支店は、一切ございません。」とホームページに記載され、おそらくメディア取材を受けた際にも、「系列店及び支店は、一切ございません。」と言っているのだと思います。

もちろん「一切ない」のはたしかなのでしょうが、3代目が3兄弟だったとかで、次男が『千束いせや』を三男が『蔵前いせや』を構えています。伊勢屋の本家が「系列店及び支店は、一切ございません。」と、しつこく言っているくらいなので、「のれん分け」とも異なるのかもしれません。わたしは、この次男の店に何度もランチの天丼を食べに行っていますが、昔ながらの美味しい天丼です(最近、足が遠のいていますが……)。生前の内海桂子師匠が、毎日(お昼だったかな?)、ここの天ぷらを食べていた……というのを、何度も店のおばあちゃんが言っていました(店で見かけたことはないので、デリバリーしていたのでしょう)。

ということで、さらに土手通りを進むと、広い明治通りと合流します。ここで土手通りは終わりますが、道なりに進むと今度は日光街道…国道4号線(江戸時代は日光道中・奥州街道)とぶつかり、その交差点が三ノ輪駅です。その交差点の近くにあるのが、吉原の遊女が葬られたという浄閑寺です。

この浄閑寺は、JR常磐線と地下鉄の日比谷線の間にありますが、まぁ敷地の下を日比谷線が通っています。なぜここで常磐線や日比谷線を合流させたのか……合流させつつも、多くのほかの寺とは異なり江戸時代と同じ場所に建っているのか、深い意味がありそうです。

そんな、今は高架となっているJR常磐線沿いを、次の南千住へ向かって行くと、金ピカで大きな三つ葉葵の紋が壁に貼られた寺があります。これが小塚原回向院です。同寺は小塚原(こづかっぱら)の刑場の隣に建てたれたそうです。つまり……今の地図で言うと、刑場は、線路の真下ですね……。明治期に、線路を敷いた時には、刑場跡は取り壊されました。その時には大量の人骨が出土。その骨を積み上げた小さな山が写真で残っています。写真は検索すると出てくるので、興味があれば見てみてください。

吉田松陰は、伝馬町の牢屋敷で処刑された後に、小塚原の回向院に葬られました。
その吉田松陰が、親交のあった大垣藩士の長原武に宛てた書状(東京国立博物館蔵)

小塚原の刑場で、刑を直接に執行したのは弾左衛門も配下である非人であり、執行時には同心などとともに弾左衛門も穢多の責任者として立ち会っていたようです。詳細は下のnoteに記されているので、興味のある方は読んでみることをおすすめします。

小塚原の刑場といえば、前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)が罪人の腑分け(解剖)を見学したことでも有名です。『解体新書』の元の書『ターヘル・アナトミア』に描かれている解剖図が、正確なものなのかを確認したんですね。

また刑場に隣接する場所には、「斃牛馬(へいぎゅうば・たおれぎゅうば)皮剥場」もありました。聞き慣れない言葉ですが、江戸時代は牛馬の屠殺は禁じられていて、あくまで斃れたたおれた牛馬の処理場だったことが分かります。また徳川将軍家の軍馬が亡くなると、ここに送られてきたということが個人ブログに記されていました(資料等は未確認)。

そんな小塚原の刑場から、弾左衛門の屋敷へと一直線に向かう道があります。その道を進むと、すぐに明治通りにぶつかります。それが『明日のジョー』世代なら聞いたことがあるでしょうが、泪橋なみだばしの交差点です。昔は……と言っても『明日のジョー』の頃までは……思川(おもいがわ)という川が流れていて、そこに泪橋という橋が架かっていたそうです。

ちなみに、江戸には小塚原ともう一つ、鈴ヶ森にも刑場がありました(今の品川区)。そちらの刑場の近くを流れる立会川(たちあいがわ)に架かる橋は涙橋と言ったそうです(今は浜川橋)。

その泪橋も越えて、弾左衛門屋敷へ向かう途中には、現在は少し道から外れますが、玉姫稲荷神社があります。ここは年に一度…か二度…靴祭りみたいな、主に革靴を売っている市が立ちます。お祭りみたいなものです。何度か行ったことがあり、妻などは毎年ここで仕事用の靴を買いに行っています(実際に買うことはマレです。近辺を、夜に女性が一人で歩くのは、男性もですが、おすすめしません)。

■新撰組と穢多頭の弾左衛門

玉姫稲荷神社を過ぎると、すぐに今戸の山谷堀です。江戸期の地図には、新鳥越町とあります。鳥越から引っ越してきた弾左衛門さんに由来するのかもしれません。ただ、弾左衛門さんの屋敷があったのは、隣接する浅草新町だと言われています。古地図で見ると分かりますが、屋敷のほぼ四方を寺社が囲むように立ち並び、屋敷の塀もあったため、外から屋敷内を覗くことはできなかったといいます。

そんな寺社の一つに、今戸神社の前身である、今戸八幡がありました(江戸後期から場所は変わらないようです)。今戸焼…招き猫や、縁結びの神様として、特に女性の参拝客が多いです(新コロ前は本当に多く、休みの日に行くと、行列ができていました)。この今戸八幡は、1937年に隣接する白山神社を合祀しました。白山神社といえば各地にありますが、弾左衛門が関東各地に広めたものです。また今戸神社に合祀された白山神社は、まさに弾左衛門屋敷の中にあったものです。

今戸神社で、もう一つ有名なのが、新撰組の一番隊長だった沖田総司の終焉の地を自称していることです。自称していると記したのは、特に記録が残っているわけではないからです。当然と言えば当然で、新撰組で名を馳せた沖田総司が居ると知られれば、当時江戸に侵入しつつあった薩長……特に長州藩が黙ってはいなかったでしょう。隠れて療養し、そのまま最期を迎えた……かもしれない、という話です。

その根拠は? と言えば、主治医であった松本良順先生が、今戸八幡(またはその別当寺)に住んでいたからだと言います。

ただしWikipediaには「現在の有力な史料においては、沖田は今戸八幡神社に間借りしていた松本の手引きにより、千駄ヶ谷の植木屋の柴田平五郎宅の納屋に匿われており、同地で死亡した、とするのが定説である」と記されていて、ドラマなどでも植木屋さんの家で亡くなることが多い気がします。

再び「ただし」なのですが、わたしが思うに、当初は千駄ヶ谷の植木屋に居たかもしれませんが、途中で今戸へ移った可能性も低くないんじゃないかと思います。というのも、沖田総司が亡くなるのは1868年の7月です。既に近藤勇は甲陽鎮撫隊として、同年3月には甲州(山梨県)で敗退し同5月には斬首、同月に江戸城が薩長中心の新政府に明け渡されました。千駄ヶ谷と言えば、薩長が行軍してきただろう甲州街道に近すぎます。そんなところに、有名人であり薩長から憎まれていた沖田総司を匿うかな? と。

さらに前述した甲陽鎮撫隊ですが、この中には弾左衛門の配下200名ほどが参加していました。弾左衛門が、幕府へ配下を送ったのは第二次長州征伐以来の2度目です。甲陽鎮撫隊の時には、沖田総司を看取ったとも言われる、松本良順先生の口添えがあったからとも言われています。なぜ松本良順が、今戸神社に起居していたか……ともつながる話ですが、松本良順は、先代の弾左衛門(譲)さんの掛かり付けの医者でした。そのため戊辰戦争の頃の弾左衛門(直樹)さんとも親しくしていたんです。

話が長くなりましたが、「沖田総司が今戸神社で最期を迎えた説」を支持する理由を記しています。

京都以来、近藤勇や新撰組と親しくしていた医者の松本良順。そして、もともと親しかった松本良順と弾左衛門。その弾左衛門の屋敷を取り囲んでいた寺社の一つ、今戸八幡(または別当八幡山無量寺松林院)に、起居していた松本良順。ここまでは確実性の高い話です。

この今戸は、水戸街道……今の国道6号線に近いのもポイントです。甲陽鎮撫隊として敗れて、ほぼ敗残兵となった新撰組は、水戸街道の先にある千葉の流山まで行きますが……その前に今戸にも寄ったようです。敗残兵とはいえ数十から数百人はいたはずなので、今戸八幡や、同じく弾左衛門屋敷に隣接する祥福寺などに分宿したのでしょう。今戸へ寄ったのは、親交のあった松本良順が居たこともありますが、何より、穢多村である弾左衛門屋敷の周辺は、追っ手もやってこない、江戸では隠れるのに最も適した場所だったのではないでしょうか?

そうであれば、そういう場所に沖田総司も匿われていた……というのも自然な話のような気がします。

ちなみに作家の子母沢寛は、沖田総司が千駄ヶ谷で亡くなったという設定で、小説を描いていました。その作品で、弱りきった沖田総司が、毎日庭にやってくる黒猫を刀で切ろうとする姿を描いています。でも刀を握る手もおぼつかず、黒猫は去ってしまいます。そして沖田総司が「もはやわたしには猫さえも切れない…」という話です。

偶然だと思いますが、今戸神社には招き猫がたくさん置いてありますが、ナミちゃんという、時々姿を現す白猫がいるそうです。神社で飼っているわけではないため、いつ現れるか分からず、その希少性から、会えたらいいことがある! という存在になっているとか。

わたしは見たことないな……今度、探しに行ってみようかな。(了)

■資料としての引っ越し変遷

<弾左衛門さんの屋敷>
日本橋室町辺り⇒鳥越1、2丁目辺り⇒(浅草)今戸(1645年頃)

<刑場>
本町4丁目辺り⇒蔵前辺り(浅草鳥越橋の橋詰)⇒浅草聖天町西方寺向かい⇒南千住2丁目(小塚原・1651年)

<歌舞伎(中村座)>
京橋辺り(1624年)⇒日本橋堀留町2丁目辺り(1632年)⇒日本橋人形町3丁目(1651年)⇒浅草6丁目(1841年)

<吉原遊郭>
日本橋人形町2、3丁目辺り(1617年)⇒(浅草の)千束4丁目辺り(1668年)

※時系列で見ると、弾左衛門さんの家と刑場はセットで移転した……かもしれない。鳥越と鳥越橋の橋詰は非常に近いし、今戸と聖天町は山谷堀の橋を渡ってすぐ向かい。
中村座が浅草猿若町へ移転したのは、江戸時代の後期で、幕末と言っても良い時代。

<関連note>

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