見出し画像

藤原道長が御岳詣で登った吉野・金峯山とは……大河ドラマ『光る君へ』関連note

先日のnoteで、東京国立博物館(トーハク)に展示されている国宝《線刻蔵王権現像》を紹介しました。

それで思い出したのですが、同館では、2024年の5月〜7月にかけて『吉野と熊野―山岳霊場の遺宝―』という特集展があったんです。その時には、noteを書くほど興味を抱けなかったのか、単に時間がなかったのか分かりませんが、noteしませんでした(おそらく前者の理由)。

今回は「国宝《線刻蔵王権現像》が撮影可能になりました!」記念として、『吉野と熊野―山岳霊場の遺宝―』で撮っておいた写真や、チラシなどを振り返り、主に金峰山や大峯山が含まれる吉野や、そこで活発に行なわれた修験道について考えていきたいと思います。

↑ ……ここまでを書いたのが、『神護寺展』のnoteをダラダラと書いていた時なので、もう数週間…1カ月前くらいが経つでしょうか。

その『神護寺展』のnoteを書きながら、最澄さんや空海さんのことを調べ……そこから金峰山や大峯山のことを考えていったら……先週のNHK『光る君へ(34回)目覚め』のラストで、藤原道長さんが「最初で最後の御嶽詣おんたけもうでである」と言い出していて「え? あ……でもそうか、たしかに道長さんは大峯山に行っているんだった」と思った次第です。


以下の内容は、間違いだらけかもしれませんし、諸説あるものばかりな上に、地域によって通説が異なることばかりを書いていきます。きちんと把握しないまま書き出していますが、もし明らかな誤りがあれば、指摘してもらえればと思います。

■金峰山と大峯山は、吉野にあります

まず未知の寺社を知るためには、地図でどこにあるかを確認する必要があります……って、本当にそんな必要があるのか知りませんけどね。どうも、どんな場所にあるのかが気になってしまうタチなんです。歴史と地理は不可離ですしね。

それで、特集『吉野と熊野―山岳霊場の遺宝―』の時に壁に掲げられていた、金峰山や大峯山、それに熊野三山をGoogleEarthに落とし込んでみました。さらに山岳霊場と関わりの深い、平城京と平安京……そして空海さんの高野山・金剛峯寺。最澄さんの比叡山・延暦寺も加えるべきですが、まぁ平安京とほぼ同じ場所だし、地図がごちゃごちゃするので省略しました。

平安京(平安時代の御所)の上空から金峰山……吉野・熊野の方を見てみると、平安京〜平城京〜吉野〜熊野がほぼ一直線上にありますね

特別な意味があるのかないのか分かりませんが……こうしてみると平安京〜平城京〜金峯山寺〜熊野の那智大社が南北にほぼ一直線に並んでいますね。そして関東育ちだからだと思うのですが、この金峯山寺や大峯山寺などがあるあたりを「吉野」と呼んだり「吉野山」、「金峯山(きんぷせん)」や「大峯山(おおみねさん)」と呼んだり(書いたり)していたようです。どの呼び方でも良かった……ということです。

特集『吉野と熊野―山岳霊場の遺宝―』のチラシより

もともとこのあたりが、宗教色を帯びてくるのは、飛鳥時代の頃からで、平安時代の後期に隆盛を誇ったようです。

飛鳥時代に何があったかと言えば、6世紀の半ばに仏教が伝来しました。それから80年後くらいの634年に、ほぼ伝説上の人……役小角(えんの おづぬ)という人が生まれます(もちろん諸説あり)。役小角……役行者(えんのぎょうじゃ)は、このあたりの山々を歩き回って修行をしていたそうです。

そして、役小角さんが今の大峯山寺(おおみねさんじ)がある場所で、蔵王権現を“感得”または“示現”……または岩の中から涌出ゆじゅつした……と伝承されています。言葉の意味を考えると、「修行中の役小角の目の前に蔵王権現が姿を表し(示現)、悟りや真理を会得したのか、霊験や霊力を感じ取った(感得)」のでしょう。

そして、地元の言い伝えによれば、役小角は目の前に現れた蔵王権現の姿を、ヤマザクラの木に刻んで祀ったのだそうです。その祀った場所が、現在の大峯山寺(おおみねさんじ)です。

また、役小角が蔵王権現をヤマザクラの木に刻んだことから、後に修験道が隆盛するに合わせて、ヤマザクラが神聖な木だと言われるようになります。そして平安時代の天皇や貴族が、ご利益に授かるために、吉野の山にこぞってヤマザクラを献上していった……これが、吉野の桜の始まりだと言われています。

《銅板鎚出蔵王権現像》
奈良県吉野郡天川村 大峯山頂遺跡出土|平安時代・12世紀
銅製鍛造鍍金
奈良・大峯山寺

その後、役小角のような山岳修行者が増えていったのでしょう。推測するに飛鳥から平安時代は、正式な僧になるにはライセンスが必要でしたが、そうしたライセンスのない違法な僧……私度僧(しどそう)たちが、街中にはいられないので、山のなかで修行したのかもしれません。あの、平安時代前期に修行をしていた空海さんも、そうした山岳修行者の一人だったと言われています。

わたしの勝手な想像だと、古臭いし尊敬できないような奈良の旧仏教における僧たちを、多くの人たちが見限っていたのではないでしょうか。また、仏教由来の末法思想が広がりつつあったことから、既存宗教である仏教に絶望したからかもしれません。

べつに東大寺や興福寺など、朝廷から認められた正式な僧たち、その個々の僧をディスるつもりはありません。でも、時代の変化とともに、彼らの変化が遅すぎただけ……どの時代でも、どんな集団でもおこることが、仏教界にもおきたというだけの話です。会社の中で、40歳後半以上の管理職たちが「老害」と言われて若手に煙たがれる……その若手は「今のままではダメだ。新しいことにチャレンジしなければ!」といった情景と同じことが、奈良後期から平安前期の仏教界にもおこっていたのでしょう。

《銅板鎚出蔵王権現像》

わたしの想像が続きます……役小角さんが生きた飛鳥の昔から、蔵王権現を祀る山岳修行者たちは、徐々に信者を獲得していきました(←想像です)。信者が増えれば、役小角さんが蔵王権現を感得されたという大峯山(山上の蔵王堂)に行ってみたくなるのが人情というものです。そして現在の吉野から大峯山を目指す人が増える→大峯山に堂宇が建つ→吉野から大峯山への山の中のルートが整備されていく……ということになったでしょう。すると山へ入る前に準備する場所が必要だし、山道を歩けない人にも蔵王権現を感じてほしい……ということで麓に位置する吉野の街に、今で言う金峯山寺なのか金峯神社なのか……「山下さんげの蔵王堂」が建てられた……ということなのでしょう。神社で言えば、山の麓にある本殿と、山の頂上にある奥宮や奥院の関係だった……というのはわたしの予想です。

画像はWikipediaの「吉野山」のページから拝借しました。ちょっと赤みを調整して桜色を強調しています。奥に見える大きな建物が金峯山寺(山下の蔵王堂)

田中利典さんという金峯山寺の長臈(ちょうろう)が記した文章に下記のようなものがありました。

修験道とは日本古来の山岳信仰に様々な教えが合わさってできた独自の宗教であり、もともと日本にあった神道、そして外国から伝わってきた仏教や道教などが習合して成立した日本独自の民俗宗教と言われています。様々なものを認めてきた日本だからこそ生まれた信仰です。
(中略)
修験道は八百万(やおろず)の神も八万四千の法門から生ずる仏も、分け隔てなく尊ぶ宗教です。日本には沢山の神様が存在しておられ、仏壇も神棚も持ち得るような日本人の根源的な祈りが具現化した宗教です。
(中略)
(仏教が伝来した)当初、蘇我氏vs物部氏のような崇仏派と廃仏派との争いはありましたが、その後の1,300年間、日本では仏教の仏様と神道の神様は蜜月関係の夫婦の如く、仲良くしてきました。修験道というのは、まさにそこから生まれた宗教であり、仏教を父に、神道を母に、仲の良い夫婦の間に生まれた子どものような存在なのです。

田中利典「繋がりの中で生きる〜修験道に学ぶ〜」(PDF)

明治維新後に生まれたわたしたちには、この神と仏が融合しているという、江戸時代以前の宗教感覚を、正確には捉えられない気がします。「寺の中になんで神社があるの?」と疑問に感じる人は多いでしょうし、なんで神道の上野東照宮に仏教スタイルの五重塔があったんだろう? とか、なんで神社の神主さんが般若心経を唱えているの? など、神仏が習合していることを、不思議に感じることが多いです。

とにかく仏教と神道は習合(ミックス)していたわけで、そもそも釈迦が説いていた頃の仏教だって、多分にインドの地元神を採り入れていますし、そこから日本に伝わるまでの中国でも、地元の神様が混じっていったことでしょうし、特に山岳信仰などは顕著だったはず……そのため、今も寺の正式名称は「〇〇山の〇〇寺(〇〇院)」などと付けられています。つまり「山」が重要だったんですよね。

その中で、少し神道寄りで始まったのが、奈良の南方の山々で培われた山岳信仰だったのでしょう。その後に、(伝説上の)役小角を開祖として、また蔵王権現を本尊と祀る信仰は、各地に広がっていく……と同時に平安時代になると仏教僧の空海さんが同地で修行されたり、空海さんや最澄さんが当地の山岳信仰のエッセンスを真言密教や天台密教に採り入れたりするなかで、神道寄りだった山岳信仰が、仏教(密教)へと寄っていったのかもしれません。

こちらは空海さんが開宗した真言宗・高野山の上空から金峯山(吉野エリア)や平城京、平安京を見たところ

平安時代、この吉野の山岳信仰は、天台宗の最澄さんや真言宗の空海さんに影響を与えました。と同時に、これら2宗……特に真言宗から吉野あたりの山岳信仰は影響を受けました。影響を受けたからこそ、それまでは「ちょっと怪しげな宗教」だったものから、「貴族が信仰しても良い宗教」へと洗練されていった……のかもしれません。

とにかく平安時代になると、真言宗の京都・醍醐山の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝さんが、荒廃していた金峯山を894年に再興し、参詣路を整備したり堂を建立したそうです。その後は、900年に宇多天皇が参詣したほか、1007年には藤原道長が登っています。

この寛弘4年(1007年)、藤原道長さんが42歳の時に山上ヶ岳山頂を登る様子が、予告を見た限りでは今週末の大河ドラマ『光る君へ』で描かれます(詳細は後述)。

まさかNHKの大河ドラマに合わせたわけではないでしょうけど、藤原道長さんが、標高1714mの山上ヶ岳(さんじょうがたけ)山頂……現在の大峯山寺まで登った時に埋めた《金峯山経塚出土紺紙金字経》が、今年新たに国宝に指定されたんですよね。

新たに国宝や重要文化財に指定されたものは、毎年の春、トーハクでお披露目会が行なわれるんです。特別企画「令和6年 新指定 国宝・重要文化財」です。全てが揃うわけではありませんが、その《金峯山経塚出土紺紙金字経》は展示されていたため、わたしも見ることができました。「あの藤原道長さんの文字かぁ」と思うと、感慨深いものがありました。

そもそも、藤原道長さんがこの時に埋めた《金峯山経塚出土紺紙金字経》……つまりは書写したお経が残っているっていうのが奇跡ですよね。だって土の中に埋めたんですよ。もちろん金属製の筒の中に、保湿剤としての炭などといっしょに入れたうえで埋めたんですけどね。それが現在まで残っているっていうのが……だって1,000年以上も前に埋めたのに……。

《金峯山経塚出土紺紙金字経》は、金峯神社や金峯山寺などが所蔵しているそうです。そのお経を入れた経筒《藤原道長金銅経筒》も国宝なのですが、吉野の金峯神社が所蔵し、京都国立博物館に寄託されてしまっています。

で……ややこしくないですか? 「金峯山経塚」って書いてあるのに、藤原道長さんが埋めたのは、現在の金峯山寺がある場所ではなく、現在の大峯山寺の本堂がある場所の付近なんです。そして経筒は、大峯山寺でも金峯山寺でもなく金峯神社の所有なんですよね……。ほんとは、この3つの寺社は1つだったはずなのに……明治期の神仏分離政策で、無理やり分離してしまったので、こんなにややこしい話になっているんですよね。

とにもかくにも藤原道長さんが経筒に自分で書写したお経を入れて、現在の金峯山寺の本堂がなかったのか、その場所に土を掘って埋めたんです。藤原道長さんが書いていた『御堂関白記』には、その様子が下記のように記されています。

前年、手づから書き奉る金泥法華経一部、此の度、書き奉る弥勒経三巻・阿弥陀経・心経等を、同道の僧七口を以て申上す。講師、覚運大僧都。呪願、定澄大僧都。読師、扶公法橋。唄、懐寿。三礼、明尊。散花、定基。堂達、運長。皆、被物あり。件の経等、宝前に金銅の燈楼を立て、其の下に埋め、常燈を供すなり。

『御堂関白記』(寛弘四年・1007年 八月十一日)より

こうしてお経を埋めた藤原道長さんは京へ帰ります。そして娘が一条天皇との間に子を産み、後に天皇となります。藤原道長さんは、孫天皇を補佐する摂政(せっしょう)となり、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という、盤石の体制を築くわけです。

「道長さまの願いが成就したのは、吉野の蔵王権現さまのおかげ」という噂が拡がり、「みんな蔵王権現さまにお経を備えよう」ということで、こぞって吉野へ行き、経塚を立てていきます。その習慣は、地方へも広がっていくことになります。藤原道長さんは「経塚ブーム」のさきがけ……トレンドリーダーだったんですね。

全国に広がった「経塚」
これを今見てびっくりしたんですけど……けっこう東北の岩手の方まで広がっていますね……。「毘沙門山」の経塚って、いつ頃のものだったんでしょう。平安〜鎌倉初期くらいまでの分布を知りたいなぁ

■金峯山にあるような「経塚」に埋められたものたち

藤原道長さんの話が長くなりました。そろそろ当初考えていた今回の主題に戻ろうと思ったのですが……もう少し経塚について考えたいと思います。トーハクの考古室では、かなり詳しく解説してくれているんですよね……今まであまり興味がなかったんですけどね。

まず前項までに藤原道長さんの話をざっくりとしましたけど、じゃあ具体的に何を埋めたのか? っていう話です。一言で言えば「お経」を埋めました。その「お経」を腐食などから守るために、銅製の「経筒」の中に入れて埋めました。さらに「経筒」を守るために、陶器の壺みたいなものに入れて埋めています。その陶器の入れ物には、一緒に、刀や鑑、仏像、お金なんかを入れています。そして、これら全体を守るために作ったのが「経塚」です。

※以下の写真はトーハク所蔵品です。道長さんが埋めたものではありません。こんなものだったんじゃない? という参考に。

「(陶器の)経筒」E-15168
平安時代・12世紀
京都市左京区花脊別所町 花背別所経塚出土
藤井定次郎氏他7名寄贈
「経筒」E-15168
《(銅製の)経筒》
平安時代・康和5年(1103)
山梨県甲州市勝沼町勝沼柏尾白山平 柏尾山経塚出土
《(銅製の)経筒》
《(銅製の)経筒》
783文字におよぶ漢字仮名まじりの銘文が刻まれています。
僧の寂円が出家してから、様々な経験を経て埋経に至った過程を記したものと分かるそう
《稲荷山経塚出土品》平安時代・12世紀
京都市伏見区稲荷山経塚出土
林康平氏他3名寄贈

わたしの名字には「塚」っていう漢字が入っています。以前、同僚だった中国人に、名前の漢字の一文字ずつの意味を聞いていったら……「塚」は「お墓のことだ」と言っていました。日本でも、まぁまぁ同じ意味で使われていて、お墓を意味したり、お墓みたいに土を盛っている場所を「塚」と言います。

「経塚」の構造を見てみると……「これってお墓だよね」という感じです。以下のイラストが、上から、平安時代……鎌倉〜室町時代……室町〜江戸時代……と、経塚の構造の変遷が記されています。特に初期の経塚は、まんまお墓っぽいですね。藤原道長さんも、金峯山の頂上に、こういうものを作ったのかもしれません。

で……なんで「お経」を埋めちゃったの? とも思いますよね。

これは仏教ワールドのストーリーに関係しています。平安時代は、仏教の開祖であるお釈迦さんが亡くなってから、だいたい2000年が経ったと考えられていました。どの宗教も同じでしょうけど、開祖が生きていた頃は、弟子たちも教えをきちんと理解して、実践に努めるものです。でも、その弟子から孫弟子……孫弟子から曾孫弟子……と世代が変わるごとに開祖の教えって薄まってくるというか、護られなくなるものです。

例えば高校の野球やサッカーなどの部活に例えると……すごい名監督が現れると、一気にチームが強くなりますよね。でも、その監督が辞めると、徐々に弱くなっていくものです。宗教だったら、その後に「中興の祖」みたいなのが現れて、また盛り返しますが、それでもまた勢いは衰えていく……で、また誰かが現れるのを待つ……みたいな。

仏教も、釈迦が亡くなった(入滅)後に、2000年が経つと「誰も仏法(教え)を守ろうとしない、暗黒世界がやってくる」と言われてきたんです。そもそも仏教ストーリーでは、1つの世界に1人の如来がいるはずなのに、釈迦(如来)がいなくなってしまったのですから、人間が居る世界は「如来不住」とでも言うのか、監督の不在の高校野球部みたいな感じになっています。そりゃ乱れますよね。で……その釈迦入滅の2000年後というのが、まさに平安時代の永承7(1052)年だとされていて、末法の世がスタートすると言われていました。藤原道長さんの時代は……というか、どの時代でもそうだと思いますが……『光る君へ』で描かれているように、洪水があったり日照りがあったり飢饉があったりと……さらに興福寺が好き放題していたりと……「うちらヤバくね? やっぱこれって末法の世が近づいているからだろ。もうダメだ……お先真っ暗だ……」みたいに多くの人が思っていた……末法思想が広まっていた時代なんです。

じゃあその末法の世から、自分たちを救い出してくれる……人間世界に次に現れる如来さまは誰なんだ? いつ来るんだ? というと……56億7000万年後に弥勒菩薩が現れて、仏法が保たれることで平和が訪れる……というのが仏教世界のストーリーです(今現在、弥勒菩薩は修行中で、56億何千年後には如来になる……ということなんでしょうね)。

でも藤原道長さんの時代は、末法の世の真っ只中です。「仏法が、ないがしろにされていく時代に、仏典が消失してしまうかもしれない」……「そうなってしまっては、弥勒さんがやってきた時に困ってしまうだろう。困らないように、今ある仏典を埋めておき、56億7000万年後に降臨する弥勒さんにお届けしよう」みたいな感じなのが「経塚」です……というようなことが、トーハクの解説パネルに記されています。

■金峯山に埋められていた遺品の数々

やっと、ここからが主題です。そもそも今回は、トーハクが所蔵または管理している金峯山……大峯山の頂上付近に埋められていた遺品の数々を紹介するnoteにしようと思っていたのです。ちなみに発掘された……出土したのは……江戸時代の元禄4年(1691年)だと考えられています。この時に大峯山の頂上に立派な本堂「山上の蔵王堂」が建てられた……大規模な工事がされたからです。

ということで、まずは「金峯山出土」と記録されている……おそらく大峯山の山頂付近から出土した遺品です。

《銅板鎚出蔵王権現像 E-19981》
奈良県吉野郡天川村金峯山出土|平安時代・12世紀
銅製・鍛造・鍍金・線刻

↑ まずは最も重要視された「蔵王権現」です。銅板に蔵王権現を浮彫りさせて(浮彫状)、頭髪や天衣、足下の蓮華などは線刻で細かく表現しています。さらに鍍金……金メッキが施されていますね。解説には「懸仏(かけぼとけ)」と記されています……どこかに懸けておいたんですかね?

こちらの蔵王権現が情報不明
《銅板鎚出蔵王権現像》銅製・鍛造・鍍金
奈良県吉野郡天川村 大峯山頂遺跡出土|平安時代・12世紀
奈良・大峯山寺

左足に木製の心棒を差して、立てて礼拝したものと考えられます。打ち出した銅板を前後合わせて製作する技法は大変珍しいものです。

解説パネルより
《線刻釈迦如来鏡像 E-19985》
銅製・鍛造・鍍銀
奈良県吉野郡天川村金峯山出土|平安時代・12世紀
《線刻釈迦如来鏡像 E-19985》

鏡に擬した銅板に、右手を施無畏・左手を降魔触地印とする釈迦来の坐像を毛彫りで表した鏡像です。蔵主権現は釈迦、千手観音、弥勒が一体となった姿であるとされたので、蔵王権現を表す意図が込められているものとみられます。両肩には懸品用の紐が作り出されています。

解説パネルより
上の写真を拡大

次も円い鏡のような銅板です。こちらには千手観音が刻まれています。

《線刻千手観音鏡像 E-15290》
銅製・鋳造・線刻
奈良県吉野郡天川村金峯山出土|平安時代・12世紀
上の写真を拡大
《線刻千手観音鏡像 E-15290》

鋳造した円板に十一面千手観音を細かな毛彫りで表した鏡像です。蔵王権現は釈迦、千手観音、弥勒が一体となった姿であるとされたので、蔵王権現を表す意図が込められているものと推測されます。安定感のある穏やかな尊像の表現は、平安時代後期の様式を顕著に示しています。

解説パネルより

角度と色みを変えると、もう少し見やすくなりました。

《線刻千手観音鏡像 E-15290》
《線刻千手観音鏡像 E-15290》
《線刻女神鏡像 E- 19968》
銅製・鍛造・線刻
奈良県吉野郡天川村金峯山出土|平安時代・12世紀

鏡に擬した銅板に、髻(もとどり)を高く結い、左手に団扇を手にして淋座(しょうざ)に坐す女神の姿を線刻で表した鏡像です。吉野で仰された子守明神を表したと考えられます。女神の背後に後が置かれるのは、日本の神を表す際の常套的な表現です。上部の子を使って懸けて用いたと考えられます。

解説パネルより
《線刻女神鏡像 E- 19968》
上の写真を拡大
《線刻女神鏡像 E- 19968》

女神の次は男神です。

《線刻男神鏡像 E-19969》
銅製・鋳造・線刻
奈良県吉野郡天川村金峯山出土|平安時代・12世紀

鏡に擬した円形の銅板に、太刀を佩き、胸前に笏(しゃく)を執る衣冠束帯姿の男神を表した鏡像です。左向きで、牀座(しょうざ)に坐し、背後には鳥居形の後屏が置かれています。吉野のどの祭神を表したかは絞れませんが、同様の姿の男神像は他にも伝わっており、言仰を集めたものと思われます。

解説パネルより
上の写真の拡大
《線刻男神鏡像 E-19969》
《線刻男神鏡像 E-19969》

下写真の《子守三所権現鏡像 E-15288》は、総合文化展(平常展)でいつも展示されているものです。「奈良県天川村 大峯山頂遺跡出土」と書かれているので、出土時期は異なるかもしれませんが、同じく大峯山の山頂で出土したのでしょう(おそらく明治期に発掘された遺物ではないかな……と)。

《子守三所権現鏡像 E-15288》
奈良県天川村 大峯山頂遺跡出土
青銅製 平安時代・10~12世紀

修験道の聖地として名高い大峯山の山頂からは、鏡や仏具などのほか、たくさんの鏡像や懸仏が発見されています。蔵王権現をはじめ、子守山所権現や吉野曼荼羅など、神仏習合によって生み出された神仏が多くみられるのが特徴です。

解説パネルより
上の写真を拡大したものです
《子守三所権現鏡像 E-15288》

錫杖の末端に取り付ける、銅で作られた錫杖頭です。歩くたびに、シャリン! シャリン! と鳴るやつですね。

《銅錫杖頭(どうしゃく・じょうとう) E-15300》
奈良県吉野郡天川村金峯山出士|平安時代・11世紀|銅製鋳造

錫杖は僧侶が山野を巡行する際に用いる杖で、振ると頭部の遊鐶が輪に当たり音が鳴ることから、儀式に用いられることもありました。本品は錫杖の頭部で、円形に近い張りのある輪の表現が秀逸です。簡素な形状は古様ですが、穏やかな表情から平安時代後期の製作とみられます。

解説パネルより

次は「文磬(もんけい)」というものです。時々、寺の廊下みたいなところに、天井から架かっているのを見かけます(違うかもだけど…)。鐘の小さいバージョンみたいなもので、棒で叩いて、「時間だよぉ〜」って、知らせるもの……だと思ったのですが、解説パネルには「文磬は法会の際の合図などに用いられる仏具」と記されていました。

《白銅蓮池文磬(はくどうれんちもんけい) E-19890》
奈良県吉野郡天川村金峯山出土|平安時代・12世紀|銅製鋳造

文磬は法会の際の合図などに用いられる仏具です。本品は、日本で普及した山形ので、蓮華を表した撞座の左右に、蓮池から茎を出す蓮華や荷葉を表しています。この図様は12世紀後半の愛知・七寺の一切経の経櫃中箱の蒔絵に類似しており、おおよその製作年代が推定されます。

解説パネル

■藤原道長の御岳詣の記録(#ネタバレ含みます)

藤原道長さんによる御嶽詣(おんたけもうで)については、彼がしたためていた日記『御堂関白記』に、詳細な日程が記されていました。基本は、なんちゃって漢文で記されています。その書き下し文がネットにあったので、日記の中から、彼が自宅の土御門邸を出発した8月2日から、大峯山の山頂にお経を埋めた8月11日を経て、12日に帰路につくまでの部分を下に写しておきます。これを読むと、大河ドラマ『光る君へ』のストーリーと、矛盾することがおこるかもしれませんし、日記とぴったりと整合しているかもしれません。

権記:寛弘四年(1007年) 八月二日
二日、乙未。「此の丑剋、左大殿、金峯山に詣で給ふ。源納言、御共に候ぜらる」と云々。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月二日

二日、乙巳。金峰山に参る。丑時を以て出立す。御物忌に立つ。門を出づる間、塩湯を以て衆人に灑ぐ。中御門より西行し、大宮より南に出づ。二条より朱雀門大路に到る。礼橋の下にて解除す。羅城門より出で、鴨河尻にて舟に乗る。時に辰。八幡宮に参る。午時、奉幣す。諷誦。信布三十端。宮より出づ。身主渡より東に渡る。内記堂と云ふ処に宿す。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月三日
三日、丙申。大安寺に宿す。扶公、事を儲く。華美に依りて、其の処にあらざるに依り、南中門の東腋に宿す。御明・諷誦。信布三十端

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月四日
四日、丁酉。井外堂に宿す。雨、日を尽くして降る。御明・諷誦。信布十端。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月五日
五日、戊戌。終日、雨降る。軽寺に宿す。御明・諷誦。信布十端。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月六日
六日、己亥。天晴る。壺坂寺に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月七日
七日、庚子。観覚寺に到る。沐浴す。御明・諷誦。信布三十端。現光寺に到る。御明・諷誦。信布三十端。野極に宿す。此の間、雨下る。御明・諷誦。信布十端。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月八日
八日、辛丑。終日、雨下る。宿す。

小記目録:寛弘四年(1007年) 八月九日
九日。伊周・隆家、致頼に相語り、左大臣を殺害せんと欲する間の事。

権記:寛弘四年(1007年) 八月九日
九日、壬寅。内に参る。臨時御読経始。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月九日
九日、壬寅。時々、雨下る。寺祇園に宿す。宝塔にて昼、飯を為す。両寺に皆、諷誦を修し、御燈を奉る。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月十日
十日、癸卯。時々、雨下る。御在所の僧房金照の房に着す。午時、沐浴し、解除す。

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月十一日
十一日、甲辰。早旦、湯屋に着し、水十𣏐を浴む。解除して、御物の前に立つ。小守三所に参上す。金銀・五色の絹幣・紙の御幣等・紙・米等を献ず。護法、又、同じ。三十八所に詣づ。同じく又、幣等を供す。五師朝仁、之を申す。被物を賜ふ。次いで御在所に参り、綱二十条・細盖十流を献ず。御明燈を供し、経を供養す。法華経百部・仁王経□□は三十八所の御為、并びに主上・冷泉院・中宮・東宮等の御為。理趣分八巻、八大竜王の為の心経百十巻を、七僧・百僧を請じ、供養し了んぬ。講師・呪願に綾の褂一重、五僧に白き褂一重。

 十一日。百僧に絹一疋・袈裟一条。未前に七僧に法服・甲袈裟を送る。余には宿衣。御燈申上の僧に単重。七僧の布施、□□□□□□□□□□百僧の布施、米二石・信濃三端。諷誦百端。満寺の僧供料、米百石。又、前年、手づから書き奉る金泥法華経一部、此の度、書き奉る弥勒経三巻・阿弥陀経・心経等を、同道の僧七口を以て申上す。講師、覚運大僧都。呪願、定澄大僧都。読師、扶公法橋。唄、懐寿。三礼、明尊。散花、定基。堂達、運長。皆、被物あり。件の経等、宝前に金銅の燈楼を立て、其の下に埋め、常燈を供すなり。今日より初む。今日、諷誦を修す。五師・三綱に禄を給ふ。別当金照・朝仁等に白き褂一重。自余に単重。権大夫、経を供養す。七僧・三十僧。七僧に疋絹。金照に単重・米三十石を加ふ。□□□源中納言、之に同じ。我が経に次いで、女方、経十部を供養す。我が御明の百万燈、皆、所々の御為に有り。事了りて所々を見るに、霧下りて、意のごとく見えず。房に還る。金照に褂を賜ひ、即ち下向す。夜に入りて、寺に宿す。祇園。

小記目録:寛弘四年(1007年) 八月十二日
十二日。伊周、璽の御筥を執る由の間の事<無実。>

御堂関白記:寛弘四年(1007年) 八月十二日
十二日、乙巳。天晴る。宝塔に着く。膳を進る。又、金照の申すに依りて、石蔵に着く。金照の房を定む。其の寺、甚だ美なり。膳を進る。即ち野極に立つ。馬に乗る。下道より水辺に着く。頼光・維叙・業遠等、来たる。余の人々、誡に依りて、来たらず。夜に入りて、宿す

国際日本文化研究センター『摂関期古記録データベース』より

↓ 泊まった場所などは、下記サイトを参照しました。

■経筒に刻まれた銘文

藤原道長が大峯山の山頂に埋めた……お経を入れた経筒の外側に記されていた銘文の全文があったので、こちらに書き写しておきます。藤原道長さんが、どういう気持でお経を埋めて経塚を作ったのかが分かります。

南膽部州大日本国左大臣正二位藤原朝臣道長、百日潔斎率信心道俗若干人、以宽弘四年秋八月上金峯山、以手自奉書写妙法蓮華経一部八巻元量義経観普賢経各一巻阿弥陀経一巻弥勒経一巻弥勒上生下生成仏経各一巻般若心経一巻合十五巻、納之銅埋于金峯、其上立金銅灯楼奉常灯、始自今日期龍華晨。於是弟子香合掌白蔵王而言。法華経者是為奉報釈尊恩、為値週弥勒親近蔵王、為弟子元上菩提、先年奉書欲参之間、依世間病悩事与願違為、恐浮生之不定、且京洛供養先了、今猶所以埋於茲者、蓋償初心復始願之志也。阿弥陀経者此度奉書、是為臨終時身心不散乱,念弥陀尊往生極楽世界也。弥勒縫者又此度奉書、是為除九十億劫生死之罪、証无生忍遇慈尊成之時、自極楽界往詣仏所、為法華会聴聞、受成仏記其庭、此所奉理之経巻自然涌出、今会衆成随矣。弟子得宿命通、知今日事、如智者之記霊山於前会、文殊之識往劫於須典者歟。嗚呼発菩提心懺無量罪、運東閤之匪石、加南山之不、埋法身之舎利、仰釈尊衰愍蔵信心之手跡、憑龍神之守護、願根已固我望已足。抑憩一樹之蔭飲一水之流、猶不是小緣。況此之道俗若于人或有以香花手足与此善者、有以翰墨工芸従此事者。南無教主釈迦蔵王権現知見証明、願与神力、円満弟子願法界衆生。依此津梁皆結見仏聞法之縁。弟子道長敬白。 寛弘四年丁未八月十一日

上の経筒に記されていた銘文を、Perplexityという生成AIに現代語に直してもらったのが下記です。どれだけ正確なのかは、残念ながらわたしには分かりませんが……だいたいこんなことが書かれているというのは、間違いないんじゃないかなぁと。藤原道長さんが、どれだけお釈迦さんや蔵王権現にすがろうとしていたのかがひしひしと感じられる文章です。

(仏教の世界観における四大洲の一つで、人間が住む世界……)南膽部州(なんせんぶしゅう)の大日本国の左大臣正二位藤原朝臣道長は、百日の潔斎を行い、信心深い僧俗の人々若干名を率いて、寛弘4年(1007年)秋8月に金峯山に登りました。自らの手で『妙法蓮華経』一部八巻、『無量義経』『観普賢経』各一巻、『阿弥陀経』一巻、『弥勒経』一巻、『弥勒上生経』『弥勒下生経』『弥勒成仏経』各一巻、『般若心経』一巻、合計十五巻を書写し、これを銅の容器に納めて金峯山に埋め、その上に金銅の灯籠を立てて常灯を奉じ、今日からはじめて龍華の朝を期しました。ここに弟子(道長)は香を焚いて合掌し、蔵王権現に申し上げます。『法華経』は釈迦如来の恩に報いるため、弥勒菩薩に会い蔵王権現に親近するため、そして弟子の無上菩提のために奉じるものです。先年、書写してお参りしようとしましたが、世間の病悩のために願いが叶わず、はかない人生の不確かさを恐れ、まず京都での供養を済ませました。今なおここに埋めるのは、初心を償い、最初の願いを果たす志からです。『阿弥陀経』は今回書写したもので、臨終の時に心身が乱れず、阿弥陀如来を念じて極楽世界に往生するためです。『弥勒経』もまた今回書写したもので、九十億劫の生死の罪を除き、無生法忍を証得し、慈尊(弥勒)成仏の時に会い、極楽世界から仏のもとに詣で、法華会で説法を聴聞し、その場で成仏の記別を受けるためです。この奉納した経巻が自然に涌出し、今会の衆生が随喜することを願います。弟子は宿命通を得て、今日のことを知りました。智者大師が霊山会での前世を記したように、文殊菩薩が往劫の須弥山での出来事を識ったようなものでしょうか。ああ、菩提心を発して無量の罪を懺悔し、東閣の匪石を運び、南山の不動を加え、法身の舎利を埋め、釈尊の哀れみを仰ぎ、信心の手跡を蔵し、龍神の守護に憑りました。願いの根はすでに固く、我が望みはすでに満ちています。そもそも一本の木の陰に憩い、一筋の流れの水を飲むだけでも、小さな縁ではありません。まして、この道俗の人々の中で、香花や手足でこの善事に与った者、筆墨や工芸でこの事に従った者がいれば、なおさらです。南無教主釈迦牟尼仏、蔵王権現よ、これを知見し証明し、神力を与え給え。弟子の願いと法界の衆生を円満に成就させ給え。この津梁(経典)によって、皆が仏に会い、法を聞く縁を結びますように。
弟子道長、敬白。
寛弘4年丁未(1007年)8月11日

■<参考にしたもの>

田中利典「奈良で生まれた修験道」(PDF)
田中利典「繋がりの中で生きる〜修験道に学ぶ〜」(PDF)

以上です。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?