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木工・漆工・金工の最高の技が見られる東京国立博物館の刀剣甲冑の部屋……豊臣秀吉の大刀拵や兜も見てきました

東京国立博物館(トーハク)には、主に2か所に、平安や鎌倉時代以降の刀剣が展示されています。一つは、国宝なども展示される1階の13室。そしてもう一つが同じく本館の2階の6室です。

本館1階
刀剣が展示されているのは13室
本館2階
刀剣甲冑が展示されている5室と6室

13室と6室で、置いているものにどんな違いがあるのかは、まだわたしには分かりません。ただし、13室にはなくて6室にはあるものがあります。それは「拵(こしらえ)」です。拵とは、鞘や柄を含む刀装……外装ですね。

特に現在6室に展示されている刀装は……美術視点で見て、とても美しいものが展示されています。また年末の改装で、もしかしたらライティングが変わったかもしれないのですが、以前よりも明るくなったような気がします。その拵の美しさが以前よりも映えるように思われます。

現在、同館の平成館では特別展『本阿弥光悦の大宇宙』が開催されていますが……今週末まで?……このこしらえを見ると「あぁ…だから光悦は、舟橋蒔絵硯箱のような美しい硯箱をプロデュースできたんだろうな」と思えるかもしれません。なぜならこしらえは、木工や漆工、金工など、おそらく当時の最高峰の技術が凝縮されているからです。


■大久保一翁《刀 伝当麻たいま》鎌倉時代・13世紀

一般的には大久保一翁の名前での方が知られている気がする大久保忠寛は、幕末に旗本の家に生まれました。大久保家の祖は、徳川家康の祖父・松平清康の代からの譜代家臣。大名にこそなりませんでしたし家禄こそ500石と多いとは言えませんが、旗本の中でも超名門と言ってよいでしょう。第11代将軍・徳川家斉の小姓を勤めたあとに家督を継ぎ、ペリー来航の翌年、安政元年(1854年)には、老中の阿部正弘に見出されて目付・海防掛に任じられています。そして西洋式兵学校の設立などの意見書を提出した勝海舟を訪問。その能力を高く評価して、上司である老中の阿部正弘に、登用するよう推挙しています。

《刀 伝当麻たいま

幕臣としては、その後は外国奉行や若年寄などを歴任。明治に入ってからは、徳川家達とともに駿府へ引っ越し、商法会所を設立。徳川慶喜の推挙により、渋沢栄一を抜擢したそうです(以上も以降もWikipediaによる)。その後の明治5年に、西郷隆盛らの説得により東京へ移住。東京府知事となりました。

その大久保一翁は、刀剣……特に「虎徹」の収集家として有名なのだそうです。もともと刀剣好きだったのですが、特に虎徹に夢中になり、家を売り払ってまで購入するほどだったとか。相場より高い価格で購入するため、虎徹が市場から消えた…‥と言われるほどだったそうです。

元特許庁長官や資源エネルギー庁長官だった細野哲弘さんの『大久保一翁にみる敗戦処理の美学』という寄稿文によれば、その蒐集品の中でも「長曾祢興里入道乕徹銘の虎徹、当麻の刃(重要文化財)などが有名である。後者には、自作の和歌「由起布(ゆきふ)かき山もか寿(す)みて本能々(ほのぼのと)あけ行く春乃(の)多(た)まちのそ良(ら)」と「一翁」の二文字が金象嵌で彫られている」と記されています。

ん? 文中の「当麻の刃」は、明らかに現在展示されている《刀 伝当麻たいま》のことですが、「長曾祢興里入道乕徹銘の虎徹」も、もしかするとトーハクに所蔵されているものかもしれません。《刀 銘 長曽祢虎徹入道興里》というのが所蔵品の中にあるんです。となると、虎徹や《刀 伝当麻たいま》は、大久保一翁またはその子孫から買い取ったか、または寄贈されたのかもしれません(寄贈者とは記されていませんけど)。

折紙(写真はTNMより)

ちなみにこちらは折紙付きです。「折紙」というくらいですから、本阿弥家の誰かが「これは大和五派の一つ当麻たいま派の作であり、千貫の価値があります」と鑑定したのでしょう。

解説パネルには次のように記されています。

幕末から明治時代の武士・政治家・大久保一翁の愛力で、鎌倉時代の太刀を擦上げて刀にしたものです。筆には一翁の歌が金象で記されています。無銘となっていますが、鎬幅が広く鎬の高いがっしりとした刀身と冴えた直刃の刃文から、大和五派の一つ当麻たいま派の作とみられます。

解説パネルより

しっかりと「由起布(ゆきふ)かき山もか寿(す)みて本能々(ほのぼのと)あけ行く春乃(の)多(た)まちのそ良(ら)」の歌が金象嵌で記されていますね。

そんな一翁さんの息子の1人が、朝の連続テレビ小説『らんまん』では俳優の今野浩喜さんが大窪昭三郎として演じていた、大久保三郎です。ややこしいですね。ドラマを観ていた人であれば……教授や助教授の太鼓持ち的な人だったけれど、槙野万太郎(牧野富太郎)と共同研究をさせてくれ! と言っていた彼です。途中から一気に良い人のように描かれていましたね。

実在の大久保三郎は植物学者で、ミシガン大学に留学して植物学を学んで帰国しています。矢田部良吉を補佐し、1889年(明治22年)には牧野富太郎と連名で、“ヤマトグサ”の論文を『植物学雑誌』に発表。これが日本人が初めて植物の学名をつけた例となりました。『らんまん』では、感動的に描かれていましたねぇ……懐かしい。

もしかすると、この大久保三郎さんが、帝室博物館に寄贈してくれたのかもしれないと思うと「ありがとう!」と言いたいですね。

■かっこいいし漆がきれいな《朱筋溜塗打刀(《刀 伝麻》の拵)》

もうここからは読む人も少ないでしょうが……前述の《刀 伝当麻たいま》の拵(こしらえ)=刀装も、しっかりと横に展示されています。

刀身も良いですけれど、見てください、このこしらえの美しさを。

《朱筋溜塗打刀(《刀 伝麻》の拵) F-20203-2》
江戸~明治時代・19世紀

特にわたしは、この鞘の美しさに見惚れてしまいました……そのためか、ちゃんと写真に撮っていませんでした……。

解説パネルには「鞘を鮮やかな楽筋溜塗とし、」と記されています。「溜塗(たまりぬり)」を調べてみると「朱漆に朱合漆を重ねて塗ること」とされています。この漆を重ねて塗ったことで、こういう美しさが出てくるんでしょうね。すばらしいです。

重要文化財 伝当麻刀(金象嵌銘)ゆきふかき…」に付属する刀装(拵)で、大久保一翁の好みでつくられたと考えられます。鞘を鮮やかな楽筋溜塗とし、刀装具は鐔(つば)が鉄製でその他は赤銅製とします。幕末には栗形や返角(かえしづの)がなく、足金物を一つだけ付けた本品のような拵が流行しました。

解説パネルより

■上杉家に伝来! 室町時代《黒韋包金桐紋糸巻太刀 F-19991》

前述の大久保一翁さんの刀で、時間をかけ過ぎてしましました……。

次は……と言っても別に展示順に紹介しているのではありませんけれど、室町時代に作られたとされる《黒かわ包金桐紋糸巻太刀》です。こちらは上杉家に伝来したもの。山形には立派な博物館があるのに……なぜトーハク所蔵なんでしょうね……というのは明治天皇が関与していそうですが、深堀りするのは今回はやめておきます。

《黒韋包金桐紋糸巻太刀 F-19991》
室町時代

本作は、柄や鞘を糸巻にした糸巻太刀で、さらに補強のために鞘全体を黒漆塗の皺韋(しぼかわ)で包んでいます。柄巻や鞘の渡巻は紫糸で平巻とし、鐔(つば)など全体の金具は金製で、表面には魚子地(ななこじ)に枝桐紋を高彫しています。戦国武将上杉家の伝来品で、実用的かつ豪華な造形が見どころです。

解説パネルより

特に、黒いかわが渋くていいなぁと思ったのですが、解説を読むと、これは皺韋(しぼかわ)というのに黒い漆を塗ったものだったんですねぇ。とても良いです。

■《国宝 太刀 福岡一文字助真》……の拵(こしらえ)

こちらは紀州徳川家伝来の《福岡一文字助真》の拵(こしらえ)=刀装で、《沃懸地いかけじ葵紋 蒔狯 螺鈿 打刀うちがたな》という難読名が付いています。

鞘は金粉を密に蒔いた沃懸地いかけじに葵紋を蒔絵や螺鈿で飾り、柄は白鮫着せに青糸巻とし、鐔(つば)などの金具は赤銅魚子地(ななこじ)に葵紋を高彫色絵で飾ります。

解説パネル

■《梨地菊桐紋散糸巻太刀 F-220-1-2》

《太刀 青江次吉》の拵(こしらえ)です。

糸巻太刀は柄と鞘に糸(組細)を巻いた太刀拵で、江戸時代には高位の武士が儀式で佩用し、贈答や奉納にも使われました。

解説パネルより

本品は鞘は梨地蒔絵、金具は赤銅魚子地高彫色絵とし、菊桐紋を全体に飾っています。

解説パネルより

菊と桐紋を全体に配置している、この拵えを持っていたのは誰なんでしょうね? とっても気になりますが……これも明治天皇関連でしょうかね。いちおう刀身の《太刀 青江次吉》も載せておきます。

《太刀 青江次吉》

■ゴージャス過ぎる! 南北朝〜室町時代《菊造腰刀》

小さいけれど、工芸の粋が集められたような《菊造腰刀》です。こういうゴテゴテした派手なモノは、本当はあまり好きではなかったのですけどね……最近は「こういうのもいいよね」と思ってしまうようになりました。やっぱりね……単に華美なだけでなく、本物だからこそ美しいと思えるんじゃないかなと……言い訳みたいですけどね。

《菊造腰刀 F-12895》
南北朝~室町時代・14~15世紀

腰刀は腰帯に指す短い装です。合口造を基本とし、日常にも軍陣にも用いられました。鞘には腰帯から抜け落ちるのを防ぐための下緒を通す栗形と折釜があります。本作は全体や鞘の鐺(こじり)などを鍍金(ときん)した枝菊文の高肉彫とし、鞘を鍍銀した鮫皮風の銅板で包んだ高級品です。

■豊臣秀吉が使っていたかもしれない大刀と小刀

はい次は豊臣秀吉の所用と伝わる大刀と小刀です。こちらもド派手ですよね。朱色の漆を塗った鞘には、二条の金の薄板が螺旋状に巻かれています。これ、薄板がどのくらいピタッと鞘に巻かれているのか、触ってみたいんですよね……もちろん素手で。まぁ絶対に叶いませんけどね。

《朱漆金蛭巻大小 F-19872》
安土桃山時代・16世紀

大小は、大刀(刀)と小刀(脇指)の鞘を同じ意匠で揃えたものです。安土桃山時代に登場し、江戸時代には武士の身分標識となります。本作は豊臣秀吉の指料と伝わる名品です。朱漆塗の鞘に、二条の金の薄板を螺旋状に巻<蛭巻(ひるまき)とした、桃山文化らしい華麗な造形が見どころです。

そして、いま「豊臣秀吉って言ったら、この兜だよね」というような《一の谷馬藺兜ばりんのかぶと》が展示されています。

《一の谷馬藺兜 F-20135》
安土桃山~江戸時代・16~17世紀

豊臣秀吉のとして三河国(愛知県)岡崎藩士の志賀家に伝来したものです。兜鉢は鉄黒漆塗の一の谷形で、後立には馬藺(ばりん・アヤメの一種)の葉を模した檜の薄板を放射状に配しています。太陽の光をイメージさせる印象的な造形で、日輪の子といわれた秀吉にふさわしい兜です。

↑ 「ここが一ノ谷です」なんて言っても、さっぱり分かりませんよね。トーハク展示の兜でも時々ありますが、こういう絶壁っぽい形を「一ノ谷」と言っています。源義経が、平家が陣を敷いた一ノ谷の背後に位置する、鵯越(ひよどりごえ)の山路を抜けて、断崖絶壁を馬で駆け下りて攻め込んだ……という逸話の、その断崖絶壁を表現しているようです。戦の天才、義経にあやかろうという感じなのでしょう。

馬藺(ばりん)というのは見たことがありませんが、アヤメの一種なのだそうです。その「葉を模した檜の薄板を放射状に配し」ています。正面から見るとキレイですが、少し横から見てみると、けっこうバラバラです。ヒノキの薄板を使っていて、作られてから400年近く経つのですから、当然ですね。あ……あと、向かって左の一番下の葉が、一枚抜けてしまっています。

以上、《一の谷馬藺兜ばりんのかぶと》については、以前、色々と調べて長文を記しましたが、たいていの努力は報われないもので……ハートが4つしか付いていませんw 興味があれば、一読してみてください。

■小堀遠州の甲冑も!

既に寝る時間が迫っているため、以降の解説は今後にとっておこうと思います。この甲冑を見てから、漫画 or アニメ『へうげもの』の第一話を見ると面白いかもしれません。

右《紺糸威二枚胴具足 F-16003-1》江戸時代・17~18世紀
左《仁王胴具足 F. 16000》安土桃山時代・16世紀

●《紺糸威二枚胴具足》

大名茶人小堀遠州の所用と伝わる具足です。全体の威毛を紺糸で統一し、要所には家紋の花輪違紋を彫金や七宝で表わした飾金具を配し、籠手(こて)の金物は白檀塗としています。兜は尖り帽子のような変わり兜で、輪貫(わぬき)の前立を飾ります。細部まで入念に仕立てられた優品です。

●《仁王胴具足》

鉄板を打ち出して裸の肉体を表わしたが、仁王像を連想させることから仁王胴具足といわれます。朱漆塗の胴の背面には、丸に心字を金箔で表わしています。兜は獣毛を兜鉢全体に植えて、髷を結った野郎頭の変わり兜です。あたかも裸で戦っているような奇抜な造形が見所です。

ということで、また。

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