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男と女は分かり合えるのか(2)~女性は「生きる」ために「群れる」~

「フェミニズム」で女性の権利と主張して、男性の女性蔑視とかを批判する。

なんだかんだ女性が男性を無視できないことは、人類の繁栄やらなんやらより、女性が自身が「生きる」ことに直結しているからだ。

男性に要らないと判断されたら、女性という人間は消されるということを、人類はみな本能で理解しているのではないだろうか。

女性が本気で男性と戦おうとしたら、男性は暴力で勝てることを理解しきっている。
霊長類最強なんて呼ばれた女性のレスリング選手さえ、甥っ子の中学生に勝てないのだ。

男女共に暴力で女性は男性に勝てないことを理解しきっている。
話し合いをしない世界では女性は絶対に勝てない。
法律で暴力が罰せられなかったら、女性は虐げられるだけになる。

その危険性を常に孕んでいるから、女性は男性を本気で怒らせることを本能的に恐怖する。

現代の日本では、女性に暴力で訴え出ようなんてことをしようものなら、自分は愚か者に堕ちるのだと、多くの男性が知っている。

そして、女性の権利なんて、無くても構わないと本気で思えば、多くの男性は暴力によってそれが可能になることを知っている。

人権を男性が女性に認めない世界線では、女性は虐げられて、「産ませるためのモノ」で「性的快感のための穴」として利用されるだけになるだろう。

女性の方が共感性や同性への優しさの部分で男性より勝っているのは、自分たちが本質的に弱者であることを本能で知っているからだ。
群れなければ、女性は男性に殺される。女性は一人でいては危険だ。

女性らしさや性的なことを嫌悪しても、女性はそれを捨てられない。
男性に殺されず、人間として扱われるために。

男性が女性に優しくすることや、人間として扱うこと、人権やその他の権利を尊重することは、自身の中の、人間性やひとを思う気持ちと加害欲(暴力性)の戦いに思う。

男性が暴力で女性を支配することは簡単だ。
非力な存在の女性の能力に、頭脳面や文化を作り上げる面に、もはや価値がないと男性に判断されたら、女性の権利なんて男性には価値もなくなるだろう。

産め。穴をよこせ。喘げ。それで男性は満足。

人間性に重きを置いた現代だから、女性のわたしでも当然のように権利を求められる。
女性の権利について考えることができる。
男尊女卑を批判し女性蔑視を批判することもできる。

男性には女性に優る(勝る)圧倒的な暴力がある。
女性には絶対に勝つことができない、圧倒的な暴力が。

ある意味、これが男性の優位性の最たるもの。
これが男性が生まれながらに履いている下駄、女性より生きやすい証拠ではないか。

女なんて暴力で黙らせれば良い。
それを法が禁じているから、女性は「生きる」ことができる。
女性は「人間」で「人権」がある。
それを世界が(一応)認めているから「生きる」ことができる。

男性は暴力を使い、女性を社会から(人間から)排除することが可能だ。
女性には、男性とセックスをさせることを義務付けて飼えば良い。
子供さえ産ませれば良し。家畜で良し。モノで良し。

フェミニズムを馬鹿にする男性は、それを深く理解しているのだろうかと思うと、心の底から恐怖が湧きあがる。

「女の権利は無くしましょう」
「女性は人間ではありません」
「女は家畜にしましょう」

それを全世界の男性たちだけで決めてしまえたら、女性は人間ではなく産ませる道具にしてしまえる。性的快感のための道具にされる。

女性は「生きる」ことすら不可能になる。

だからこそ、女性は男性を排除できず、女性的な良さを無くすこともできず、ときに媚びてみることもやめられない。

男女共に本能でそれを知っているのではないか。

それでも、わたしは女性で良かったと思う程に、男性の暴力性が嫌いだ。

女性が、そんな男性に勝つことができることもあるのは、現代だからでしかない。

女性を暴力で支配することに男性の世界が舵を切ったとき、女性ができることはたった一つで「集団自決」かもしれない。
そうとまで思いつめて考えた夜もある。大袈裟だろうか?

人間は高い知能と豊かな感情を持っているから、残酷で冷酷な判断をすることも、自身のために死を選ぶこともできる。

男性が女性を排除しても世界の運営は可能だとするには、女性に教養を与えすぎたかもしれない。
女性たちは、その知性で、勝てない戦いを諦めることも、辱められるだけの人生より死を選ぶ知性すらもある。
そして別の解決法を考えつく賢さをきっと誰かが持っているという、希望的観測をしたり。

男性が戦争をし、女性が平和を行うのは、まさに暴力で勝てるか勝てないかの差なのではないか。

そして、男性しか世界の運営に関わらなくなれば、暴力は加速して、戦争も頻発するのではないか。
女性を徹底排除するほどの暴力性を開放すれば、当然にそうなるのではないか。

女性に人権がなかった頃、世界は常に戦っていたことを思い出してほしい。
反対に戦争となれば、女性に人権はなくなることも。
「戦争」や「平和」というものと「女性の人権」の有る無しは、切り離して考えて良いことだろうか?

「女性の人権が認められない国は、いつも戦っていないか?」
「女性の人権についての意識が低い国は、すべての命への軽視が強くないか?」
「女性蔑視の国は、戦争や殺戮、暴力に訴え出ることが多くないか?」

人間性は人類を更に発展させたと、わたしは考える。
戦乱の世ではあらゆる研究がマトモにはできないし、世界を破壊し尽くすほどの兵器が世界にある現在を、どう考えるべきか、ひとりひとりが意識すべきなのではないだろうか。

第三次世界大戦なんてものが起きようものなら、核が放たれ、世界中が破壊の限りを尽くされることになるだろう。
勝者はおらず、勝ちも負け無い戦になるだろうとわたしは思う。
生き残った人類はそこにどんな文明なら再び築けようか?
第四次世界大戦は、こん棒での殴り合いになるのではないか?

一部の男性は、ある種の女性の排除を肯定したり、女性の権利を「フェミニズム」を馬鹿にするが、それは本当に人類にとって得策なのか。
女性はここまで学を得てしまったから、弁えることの不利益を理解してしまったし、そうしないでいる方法も知ってしまった。
いまさらに「女性から学を取り上げる」ことは不可能で、そのままに「女性はきっと弁えない」だろう。

「男性の正義」と「女性の正義」は相互理解は不可能かもしれない。
「男性にとっての正しさ」を女性が理解できないのは「女性にとっての正しさ」とは相いれないから。
お互いにそうであることを、なぜ、いがみ合い、馬鹿にし合って、解決なんてないだろう。

わたしは、男性の人間性よりも暴力性が勝っていた頃に、女性の権利を命がけで訴えた先人の偉大さを思う。

女性は「知性」や「文化」や「平和」を重んじる。
「共感」を重視し「弱者に寄り添う」。
そうしなければ生存すらも危ういから。
そうでなければならない。「生きる」ために。

知性と文化と平和を重んじなければ、女性は生きていけないのだ。

わたしはそう考える。

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