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スナフキンは孤独だったか。

特定のコミュニティに所属をせず、自由気ままに、わが道を生きる「旅人」。旅人は「孤独」を感じなかったのか、とふと疑問に思ってしまったので…。思うがままに記録をしておこうと思う。

旅人や吟遊詩人のイメージといえば、のらりくらりと街から街へ移動する、正体不明の掴みどころのない人間。

一般的に人は、何かしらのコミュニティに属したがる傾向があって、孤独に弱いと私は思っている。一番小さなコミュニティとして、例えば家族。大きなコミュニティの一例としては、国籍。初対面であろうと、何かしら共通点が見つかれば、途端に親密度が増したような錯覚さえ起こすのだから、不思議。

共通点を見出したい、というのは単純に目の前のその人に興味がある場合もあれば、集団における一人ぼっちを避けるため、でもあるのではないかと思う……つまりは、孤独を避けるため。仲間外れにならないため。

小学生のころ、隣近所と2人ペアを作って、という時間が私はとっても嫌いだった。というのも、ほぼほぼ一人余ることが多く、先生が「それなら」と私のすぐ近くの2人ペアに声をかけて、私を含め3人チームを作らせていた。その、それが嫌だった。何だか情けをかけられているようで…もちろん先生は、優しさゆえに、2人ペアに私を仲間に入れるよう声をかけたのだと、わかっているけれど、何だか惨めで嫌だった。

そもそも、私が余ることが多かったのは、誰に声をかけたら良いのか迷っていたからだったと思う。大して親しくもないクラスメイトばかりで、私から誘っても迷惑ではないのかとか、きっと私じゃなくて一緒に組みたい子がいるはずだから、とか。そんな事を考えていたような、いなかったような。

ただ今思うと、子供の頃から自己肯定感は低い方だったような気がする。

さて、話を戻して、誰かとつるみたい気持ちを持つ人が多い中、旅人は人にも場所にも固執しない。自分の思うがままに行動できるのは強さなのだろうか。それとも、人と深く関わることを避けるが故なのだろうか。

人と深く関わる、ということは、それなりに接触回数も増えるから、人に時間を費やすことになるし、その人のことを考える機会も増える。約束をすれば、時間を守らなければならないし、何かと面倒ではある。

とはいえ、人はひとりでは生きられないし、自分を深く知っている人がいると嬉しい部分もある。他人がいてこそ、自分が成立する側面もあるわけで。世の旅人や吟遊詩人たちは、それを理解した上、旅人を選んでいたのか。無論、彼らが旅をする中で得てきた情報が対価となるから、コミュニティや人に固執しなくとも、旅をし続けることが出来たのだと思うけれど。

私は旅人には憧れるけれど、常に初対面の人間に囲まれる生活は、私にとって過度以上のストレスになる気しかしないから、空想だけで十分。私は私をよく知る人と、笑って過ごせたらそれでいい。よく知る人が不機嫌な状態は不安になるから嫌いだ。自分が何かしでかしたんじゃないかって思ってしまうから。……まあ、私が原因になることなんて、あり得ないのだけれど。私もまだまだ自己肯定感というか自己受容というか、分かっているけれど、わかっていない。そんな段階が続いている。



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