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『”普通”の価値が低い時代に』

 最近「波風立てるのが避けられている」と感じていたのですが、そんな中で出会った本の情報をまとめています。議論を避けたい生理的な理由、それがどんなスパイラルに繋がるのか、短くまとめてみました。

普通でいることが好まれる理由

 小さい頃、みんなが履いている靴を欲しがったり、結局は普通に大学まで進学して就職しているなど、僕たちはいつの間にか”普通”の感覚を身につけています。大きくは教育に依存しています。しかし教育という後天的な要素に加え、普通が好まれるのは生存本能の賜物でもあります。

 ヒトにはホメオスタシス(恒常性維持機能)という生理的な本能が備わっています。今の状態を維持することで体力を温存する機能です。従って僕たちは無意識下で、内外の環境変化が起こりにくい状態 ”Comfort Zone”を好むよう作られています。居心地の良い自宅、見慣れた地域、物心知れた友人。全く悪いことではないですが、Comfort Zoneの一種です。

”普通”はどのくらい効果的なのか?

 ホメオスタシスが機能すれば、確かに変化への対応に体力を使わないので昨日と同じ今日を過ごすことでエネルギー効率の高い時間を送ることができます。これが”慣れ”とか”習慣化”と言われるもので「物事を継続させるのは最初が一番シンドイ」と云われるのはこのためです。例えばジョギングを始めると最初はかなり疲れますが徐々に身体が慣れてきて、1ヶ月もするととても楽に走れるようになります。ただし一定の時間を確保できる定型化された生活で、いつものシューズで天候や気温が安定していることが前提です。今日は裸足で大雨の夜、明日はスニーカーで昼ごはんの後、という具合に外部環境が毎回大きく違うと、多少筋力はついて楽にはなりますが、いつまでも習慣化できずに走り出しは常にシンドくなります。

 これをもっとgeneralに日々の生活に置き換えた時、これまでの自分の狭い経験値から想起される”普通”を過ごしていても外部環境は常に変わり続けるために、恒常性を維持することにはならず、本当の意味での”Comfort”に繋がらない可能性が高いです。

 物事の価値に普遍性はなく、昨日正解だったはずの選択肢がいつの間にかレースの最後尾に来ている、そういう時代です。つまり過去の正解を頼る事は、失敗の確率を少し下げることはできても”より良い”毎日を楽しむことにはつながらず、リスク回避手段としてもそれほど有効ではありません。斯かる状況下、前例を参照して作り出されている”普通”にどれほどの価値があるのか改めて考え直したいです。

”普通” ≠ ”Confort”

 変化を避けることで得られる昨日と同じ今日は、ホメオスタシス的には正解です。だからこそヒトは本能的に今あるものに固執します。これは現状維持バイアスと呼ばれ、今あるものへの損失と新しい変化がもたらすリスクが、変化によってこれから得られるチャンスよりもだいぶ大きく見えてしまう意識です。以前僕の上司(56)が酒の席で「大海があるのは知っているけど、できれば俺は蛸壺に入りたい」と話していたのを思い出します。
 人は、余程強固な意志を持っていない限りは大抵の場合、変化がもたらすリスクとチャンスを天秤にかけ、今日と同じ明日が安定的に供給される未来を選択します。その選択が”普通”です。つまり、確率論や経験則、先入観によって、”普通”を選択することが最も恒常性の維持に貢献してリスクを最小限に抑えられる気がするという暗黙知です。

 しかしながら外部環境変化が多く物事の価値が一定ではなくなってきているここ数年においては”普通”が恒常性に寄与する可能性が目減しています。そうなるともはや、”普通”であることは本来のメリットを失い、Comfort Zoneに居る事だけを目的としている気がします。つまり、気心の知れた環境に身を置き続けることで得られる価値は、居心地の良さだけです。居心地が良い方が身体が休まると言う人もいますが、長期的に見てそれが精神的にも”Comfort”なのか、ちゃんと考えるべきです。

世界一”普通”が多い日本は”Comfort”?

 日本は生命の危険が極めて低い国で、食も満たされ、医療や教育もそれなりに整っています。経済も安定していて、”普通”であることを肯定される国なので人生の失敗も少ないです。たぶん旧来の世界が目指していたComfort Zone=ユートピアは、ここ日本にあります。
 だとすると何故、理想郷である日本の喫茶店では職場のグチが飛び交い、居酒屋で管を巻くサラリーマンがデフォルト化しているのか。ネット掲示板の書き込みが世界一多く、その大半が誹謗中傷なのか。本来ここが理想郷であるならば、コパカバーナで異性の身体を眺めて薄味のビールを飲んで仲間とゲラゲラ笑っている、僕が愛するブラジル人のようになって良いのではないでしょうか。
 居心地の良さは精神的にも”Comfort”なのか、改めて考えたいです。変化が少なく居心地が良いということをComfort Zoneとする定義は、もう過ぎたと考えた方が良いでしょう。

Comfortの意味を間違えると怖い

 居心地の良さは期待しているほどの価値をもたらさないだけでなく、人間の本来ある能力を棄損させる危険性もあります。
「現状維持 ⇨ リスク取らない ⇨ 衝突避ける ⇨ なるべく目立たない ⇨ 自分の意見言わない ⇨ 意見出てこない」
 これを日々の生活に置き換えると、たぶん多くの人がどこかのステップに入っている可能性があります。(僕の場合、パーソナルスペースを犯してくる人が周りに減ってきているので、もっとズカズカ踏み込んできてもらえるように振る舞わなければなりません。)以下のケースが出てきたら、要注意だと思います。
・波風を立てない方法を考えてしまう
・パーソナルスペースが堅牢
・常に理解できる、理解しているフリをする
・結論が曖昧でも問い直さない
・議論(Argument)を避ける
・いつも誰かの顔色を窺っている
 僕たちはComfort Zoneを目指すために普通を求めることで思考停止に陥りやすいため、定期的に自分を顧みて、敢えて変化のストレスを与えてみるのはとても効果的です。

普通を外れたその先で

 ただし常識や習慣を外してComfort Zoneを出ればそれだけで道は開けるかというと、半分正解で半分足りません。
 ”普通”に満たされ居心地の良い精神状態に穴を開けると必ずそこに風が吹き込んでくるので、Comfort Zoneから出るだけで何かしらの変化やチャンスは訪れます。しかし、常識と違うことをして目立って賞賛されるのは小学生までで、我々社会人は常識外で新たに「智、情、意(知恵、情愛、意志)」をバランス良く織り交ぜながら新しい常識を作ることで、初めて他人から理解され、社会での存在意義を認められます。
 常日頃から新しい情報を取り入れることを是として、巡り合った運命に乗っていける智力を養い、世界の感情に共感し、経済活動と道徳を分けずにバランス良く欲望を実践していくことで、初めておもしろい展開が生まれていきます。
 なかなか難しいですがやれば必ずおもしろくなります。居心地の良さにほとんど価値がない時代、変化と挑戦によって自分の何かをアップデートし、”普通”を超えたという実感を持つことの方が、外部環境に左右されない精神的なComfortに繋がります。

そう考えるともはや、人生に成功や失敗は存在しません

竹井淳平


参考文献:
「進化の意外な順序ー感情、意識、創造性と文化の起源」アントニオ・ダマシオ
「心のブレーキの外し方 」石井 裕之
「論語と算盤 」渋沢栄一

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