見出し画像

二郎から始まる家族ゲーム 第2章

 新円切り替えによって、所持している現金がほぼ無価値となってしまった二郎は幼い和夫達と恵を残し、東京の築地に学生時代の伝手をたどって漁師向けの土産物屋を営む事になった。その時昭和21年。
 東京にアパートを借り仮住まいを作りその土産物屋で上がった利益を恵や子供たちの住む故郷へ送る事にしたのだった。今度は恵の義実家に送るのではなく確実に届く現金書類(現金書留)を利用して送る事にしたのである。
 その時代はもちろん郵便局にATMという物はなく、戦後の混乱で郵便口座での振り込みも、人が沢山郵便局に殺到して時間がかかってしまうため、現金を現金書留で郵送する事により届いたことを知らせてくれる証明もできるので、義実家には現金は二度と送るまいと決めていたのであった。

 遠洋漁業の漁師というのは戦前戦後もほとんど海での暮らしが続き、食料や真水、船の燃料補給の際に港に立ち寄る事を上陸と呼ぶ。
 その上陸の際に用意してある、おしゃれな服を上陸用と呼びセカンドバッグや財布、ベルトのバックルまで上陸用には非常にお金をかけるのである。
 その習性を恵の故郷である漁師町で学んでからは、どういったものが売れるのか考えもつかなかったのだが、まずは服やズボンやベルトなどを進駐軍にコネのある軍属仲間から仕入れて売ってみる事にしたのである。
 その商売をするにあたって、場所を提供してくれたのは軍属時代に軍関係者として色々と話の合った人物であり、漁師相手の土産物も結構だが進駐軍にお金を使わせれば、なお儲かるぞと言われ京都などから反物を取り寄せたり、日本人形や男性用の浴衣なども取り扱うようになり、遠洋漁業の漁師の他にも進駐軍の兵士などが日本に来た記念に二郎の店で買い物をしていくのだった。
 
 時は過ぎ昭和33年、和夫は13歳になり健康で活発な少年に成長していた。学校での成績はいつもトップで教師がテスト問題などで引っ掛け問題を和夫用に作るというような秀才ぶりであった。次姉も勉強の成績は優秀であり、恵も大変喜びながら成長したのである。
 恵は戦中時から時折体調を崩すことがあり、二郎が帰ってきている時に防空壕を婦人会で掘る事になった時は恵を休ませ二郎が防空壕を堀りに行き、他のご婦人方の何倍も仕事をして恵への不満が起こらないように努めていたのである。
 そして二郎は和夫が中学校を卒業する時に、和夫の担任の教師からある打診をされるのである。
「和夫君は中学校でも、優秀な学業を修められています。お父様は東京でお仕事をされていると聞きました。私と校長で推薦文を書きますので和夫君を東京の高校へ進学させてもらい、更に大学へ進学させて将来の選択肢を増やしていただきたいのです。」
 二郎は東京での仕事を引き払い故郷で、遠洋漁業船を運航する水産業者から経理責任者を打診され東京の築地の土産物屋は事業売却して港町に戻ってくる手筈を整えたばかりの時の話であった。
 二郎は教師に訳を話した。
「何年も家族と離れた生活を送っていました。要約、故郷に帰って家族と生活が出来るようになる事になりました。和夫は田川家の長男です。この町で育てこの町の役に立てるような人物に育てるつもりです。」
 教師は唖然とした表情で二郎を見つめた。
「この町では東京の学校に行き卒業をして、町役場や税務署や銀行などで故郷に戻ってこられ活躍されている人が沢山います。」
教師は負けずと二郎に和夫の東京進学への根拠を説いた。
 二郎は事業売却と言っても、昭和27年頃からサンフランシスコ講和条約が発効され駐留していた米軍兵士は、新たに作られた横浜基地や沖縄基地にその多くが配属される事になり東京からは姿を消し、戦後の闇市も姿を消して戦前の活発な築地の姿に戻りつつあった。
 その中で二郎の土産物屋は、遠洋漁業の漁師の上陸用の服やカバンなどの売り上げに頼る事となり、メインの客層であった進駐軍人の日本土産の売り上げが伸び悩み、資金力のある企業が日本人の東京観光土産物屋にしたいと打診があり、商品全部と借り上げていた建物の権利を買い取りたいとの事で向こう1年分の生活をしていけるだけの金額で売却しており、和夫を東京に進学させ下宿までのお金を捻出できない事情があった。
「とにかく和夫は船乗りになりたいと言っているので、地元の水産高校にいかせて、ゆくゆくは船乗りにしたいと考えております。」
タバコをくゆらせ、教師にも勧めてしばらく沈黙が続いた。
二郎が再び教師に話をした。
「私は先の戦争でこの地元の多くの男連中を死なせてしまった。いまさら田川家の子供を町の表舞台に立たせる事は、死なせてしまった男連中の家族にも申し訳がたたない。我が家も長男である和夫にこの町で生きてこの町を捨てる事がないように育てていくつもりなんです。」
教師は
「和夫君は卒業後の事は何と仰っていますか?」
二郎は
「恥ずかしながら、私の東京での商売は買いたたかれてしまい金銭的に大変苦労しておる次第です。和夫はカツオ船に1年乗って1年遅れで高校に行くというので、和夫の気持ちをありがたく頂戴した次第です。」
教師はまた唖然としたした表情で二郎を見返した。
「15歳でカツオ船ですか?そんな…身体もまだ小さいまだまだ成長期の時期に過酷なカツオ船に乗るなんて…お父様はどうお考えですか?どう考えても危険すぎます!!」
二郎に詰め寄った。
「私がここに戻ってきたのは、カツオ船の操業元の水産会社から経理を任されての事です。和夫は私の今度働く会社の船に乗ってもらいます。ですがカツオ漁師として乗る訳ではありません。調理場でコック長に付いて飯炊きの修行をさせます。外国を見てくることで和夫の人生も開けてくると水産会社の社長も賛成していただいたのです。」
教師は漁師町のカツオ船の過酷さも知っているので、尚の事二郎に問いただした。
「カツオ船は1年間船に乗りっぱなしです。危ない外国の地域もあると聞いています。子供一人乗せるのは反対です。」
二郎は笑いながら教師に諭すように話した。
「先生、もう戦争は終わったんです。これからの時代は日本の事だけ地元の事だけを見て生きていく事もできます。ですが和夫には若いうちから世界を見て回って日本の素晴らしさを実感してもらいたいのですよ。」
教師は疲れ切っていた。
「今回はこれで帰らさせていただきます。進路の事も改めて和夫君と話し合いたいと思います。本日はご多用の所ありがとうございました。」
と一礼して二郎の家を離れて行った。

 二郎はたばこをもう一本燻らせながら、屋根を見上げて考えていた。
(何も好き好んで大事な子供をカツオ船に乗せるんじゃない。時代がそうさせているんだ。和夫には苦労をかけるが我が家の為を思って言ってくれた事に感謝せねばな…)
二郎は玄関を出て、飼い犬と遊ぶ和夫を優しい目で見つめていた。

 和夫は自分の担任と父との話し合いがあったのを知る由もなく、話し合いがあった数日後に進路指導の面談を担任とする事になった。
「和夫君は、将来なりたい職業や夢はあるのかね?」
和夫は満面の笑顔で、
「はい。船の免許を取って父の働く会社のカツオ船の運転手になりたいです。」
教師は和夫に諭すように伝えた。
「先日、君の父君とお話をさせていただいて…君は学業がこの町でも群を抜いて優秀だ。この町で埋もれるよりも更に活躍できる場所はある。東京の高校に校長と私で推薦状を書くから東京の高校と大学で勉強してみないか?」
和夫は
「父は何て言っていましたか?僕はもちろん父が東京に行っている間に母の身体の具合があまり良くなくて…小学生の頃からなんですけど、近所の人に母が責められられるのを見たんです。あんたの旦那がウチの主人を殺してきた。あんたは平気で生きていて、旦那も元気で良い生活しとるなって…それから母は床に臥せってしまって、畑の世話や町内会のドブ掃除の仕事は全部僕がやってるんです。父が家を離れていたので長男として家を守っていきたいんです。勉強の事はあんまり考えていませんでした。父からは田川家は戦争で多くの命を俺が亡くさせてしまった。時代が変わるまでは表舞台に出るのはやめようって、子供らが非難をもらって俺のような気持ちにさせたくないって。」
教師は驚いたような表情で、
「和夫君そんな家の事までして、成績を常に1番を取っていたのかい?いつ勉強してたんだい?」
和夫は笑って答えた。
「勉強が好きだから授業で板書の他に、ノートに分からな場所を書いて教科書見たり、休憩時間に図書館で調べたりして学校でできる事は学校で済ませるようにしてました。家に帰ったら畑や田んぼの仕事があるので。」
教師は驚いた
(中学生の勉強方法としては、非常に効率の良い勉強方法だ。高校生の優秀な生徒でもこのように学校だけで授業を理解してしまうのは難しいだろうに…)
和夫は続けて教師に話した。
「卒業したら父の働く会社のカツオ船に乗るんです!船に乗ってインド洋を抜けてアフリカ海岸まで行くんです。調理場の見習いですけど、この歳で海外に渡れるチャンスなんて普通はないと思うんです。普通って何なんだて話になりますけど…普通に高校にこのまま行って船の免許取って父の働く会社のカツオ船の機関長になるのが夢ですけど、外国を同級生より先に見ておいてカツオ船の魅力を伝えられたらなって、今から考えただけでもワクワクするんです。」
教師は全てを悟った。
「君はカツオ漁船に乗って働く事が将来の希望なんだね。素敵じゃないか、私が君の年頃の頃なんて、まだ戦争の真っ最中で生きてるってだけで精一杯だった。ましてや外国に行こうなんて夢のまた夢で、戦争が終わったら勉強して安定した仕事に就きたいなって考えて教師の道を選んだんだ。和夫君の夢は普通に生きていたら叶えられないし、先生だったらカツオ船に乗るっていう勇気も出ないだろうな。運が良いね。頑張るんだよ。船に乗っていても手紙は出せるから悩みとかあったら出してくれるかな?」
和夫は笑いながら、
「はい。本当に運が良いのかも知れません。何もかも恵まれています。父にカツオ船に乗りたいって話した時は、そりゃ怒られました。そんな小さい身体でカツオ船の漁師が務まるかって。だけど、他にもカツオ船でできる仕事ってないのかな?って聞いてみたら、父が社長に聞いておくって言ってくれて調理場で働ける事になったんです。高校入学は1年遅れますけど帰ってきたらどれくらい外国の言葉を話せるのかとかを色々考えるだけで楽しくて、カツオ船に乗ったらやりたい事を帳面に書いているんです。」
教師も笑顔になって
「それなら安心だ。無理してカツオ船に乗るんじゃないかって先生は考えていたんだよ。和夫君は学校でもお母さんの身体の具合が悪い事も言わなかったし、勉強も休憩時間を使ってしているなんて、先生は驚きっぱなしだよ。和夫君の気持ちは分かった。卒業まで自分の身体も大切にするんだぞ。家族を助けて、勉強でも1番を取り続けるなんて、君みたいな生徒は初めて出会ったよ。」
和夫は
「はい!ありがとうございます。帰ってきたら先生へのお土産も持っていきますね。あと、カツオ船に乗る事はみんなには内緒にしていてもらっても良いですか?父の会社の船に乗るっていうと、ひがんだりねたんだりされるので…父が東京に働きに行っていた時も新円に切り替わるまでは本当に一生お金に困らないんだろうなって思っていました。それが新円に切り替わってからは家計は火の車で、それを知らない近所の人達に嫌味を沢山言われて…軍属の偉いさんは金に不自由もせんと東京から金送ってもろうて、ええ生活しとるんやろなって言われて…なので…」
教師は驚いた。
(戦争が終わった後でもこんな事を言われるのか…田川さんは自分から進んで戦争に参加したわけじゃない。船だって全部アメリカがモールス信号を解読していたのに…和夫君もよく耐えたな)

 戦争が終わってもしばらくは、食べる物に困った都会の人達が着物やお金を持って和夫の住む町へ物々交換をして欲しいと沢山の人が来ていた。
田川家は自分達の分を自分達でで食べられるように畑と田んぼを購入していた。和夫が生まれる前の事だった。
 田舎なので空襲の標的にもならないだろうと二郎が畑と田んぼを売ってくれる人を探していた所、二郎が恵とこの土地に移って来た時に同世代という事で仲良くなった夫婦がいた。二郎と夫は気が合い、いつの間にか義兄弟分として自らも他の人からも言われるほどの持ちつ持たれつの関係を築いていた。
 ある日その夫婦のどちらかの兄弟が亡くなってしまい、畑と田んぼを買ってくれる人を探していたのだが、どうも信用できないような親戚ばかりが寄ってきて困っていたそうだ。
 ちょうどその時に畑と田んぼを探していた二郎は、
「私らに売ってもらう事はできんかね?ちょうど我が家で食べる分の野菜と米を作ろうて、恵と話していた所なんだよ。」
 その夫は、
「ちょうど良かった。良い畑と田んぼだから親戚に権利渡してしもうたら、誰に売ってしまうか分からんから、田川さんやったら安心や。売るわ。」
という経緯で畑と田んぼを所有する事になったのだ。
 その畑と田んぼは大層に広く、自分達だけでは消費できないくらいの野菜と米が収穫でき民宿を経営する恵の義実家にも買い取ってもらえるほどの収穫量を誇っていたので、物々交換をしに来る都会の人も地元で野菜や米を分けてくれる家と分けてくれない家の情報交換があったらしく、田川家には常に物々交換をして欲しいと頼みに来る人が絶えなかったのである。
 戦時中は恵と幼い子供達と、田舎の隣組という町内会の制度で手伝いに来てくれる人達と畑と田んぼの管理をしており、戦時中にも関わらず食べ物には困る事がなかった。
 和夫とその友達で魚釣りに行き大きなアジやイワシなどが沢山釣れると、食卓におかずとして並んだのだった。特に野菜よりも米の物々交換を求める人が多く、ハイカラなドレスや高級な反物を持ってくる人や行商人がまとめて米を買い付けにやってくる程だった。
 恵は和夫を戦中に産み、戦後下に2人の子供を産んだ。それから産後の肥立ちが悪く畑に行ってもほとんどの作業を和夫に頼っていた。和夫は幼い弟や妹達の食べる食料を育てるため、学校に行く前と学校から帰宅後も肥を担いだり、井戸から水を汲み畑で夏の暑い中一人で水を撒いている姿を見られていた。
 戦後は新円切り替えの混乱や隣組と言っても夫が戦死してしまった中で女性が仕事をして稼いでいかないといけない時代で軍事恩給の制度が始まっておらず、畑や田んぼの管理は隣組では行えなくなってきており、田川家も恵が体調不良の中、長男の和夫が中学生に上がる前から一人で田畑の世話をしていた。
 同級生が遊んでいる姿を見てうらやましくも感じたが和夫と同じ境遇の子供たちは地元に沢山いて遊んでいる児童や生徒の方が少なかった。
 恵はもっぱら物々交換に来る人の相手をして、物に応じて米を測りで測り帳面に記入してと、さながら商売人のような事をしなくてはならなくなっていた。実際に商売人の人に帳面を付けておいた方が、この着物や反物は米何キロ、野菜どれくらいと基準が出来るからと教えてもらい帳面を付けるようになった。
 そのおかげで和夫は畑の世話に集中する事が出来るようになり、恵は家で収穫したコメや野菜を物々交換する役割を果たした事で敷地内に小さな蔵を建てないといけない程、物々交換で手にした着物、反物、骨董品などが多くなった。
 和夫はその田畑の世話をする事で身体も精神面も鍛えられたのだった。唯一の趣味が読書で二郎が送ってくれた本を熱心に読んでいた。読みたい本があれば手紙に書くと、東京にはさぞ大きな本屋があるのであろうと思わせられるくらい、すぐに手元に二郎から本は届けられ時間を見つけては読みふけるのだった。好きな本は戦国時代の武将が描かれた本で、特に興味を持ったのが低い身分から全国統一を成し遂げ関白にもなった豊臣秀吉の本で何冊も違う作家が書いた物語や伝記を見て兄弟姉妹に聞かせるのが好きで、和夫の兄弟姉妹も豊臣秀吉の話を聞いて更に関係する武将や人物に興味を持ち学校の図書館で本を借りてくるなど、和夫の影響で兄弟姉妹は読書をして育ってきた。

 戦後二郎が東京に出稼ぎに行っている間、恵は幼い子供達と二郎の義兄弟分の母親を引き取り生活していた。二郎の義兄弟とは田畑を売ってくれた人物であり、父子共々赤紙によって招集され東南アジアの国で戦死しており、出兵までの約束を交わし、どちらかが死んだら親、家族の面倒はどちらかが見るという約束を二郎は果たしていたのだった。義兄弟分の妻は後家さんになる話が来た事で、子供を連れて新しい嫁ぎ先に行ったとの事だった。
 そして二郎が東京から帰ってくるという事で家族は喜びで沸き返り、今か今かと二郎の帰宅を待ち望んでいた。
(父ちゃんが帰ってこれば近所の奴らも、母ちゃんに悪口言われへんやろ。母ちゃんが妾って言われたり、妾の子って言われるのに要約終わりがくる)
和夫はこう思いながら、父二郎の帰宅を待ち望んでいたのだ。

 和夫は中学校に上がってから田畑を世話していた体力と筋力で、悪口を言ってきたり、嫌がらせをしてきたり、兄弟姉妹をイジメる者には容赦ない鉄拳制裁を与えていた。地元での喧嘩は負け知らずで、隣町との喧嘩があろうものなら和夫が呼ばれ代表で隣町の相手と喧嘩をしてそれでも負け知らずの日々を繰り返しており、地元の任侠や相撲部屋、はたまた野球選手にならないかと誘いも多く、その体力と筋力は地元と隣町周辺に名を轟かせたのだった。
 そのうえ学業は常に1位を取り、父の働くカツオ船に乗る事となり和夫はとにもかくにも、たくましく育ったのである。

 和夫がカツオ船に乗ろうと思ったのは何も興味本位だけではなく、家計の事や両親への経済的不安を解消する考えを持っての事だった。
 カツオ船は乗船が決まると前金で約1年分の給金を前払いという形でもらえるというシステムだった。無事帰ってくると残りの給与も貰え、更に漁獲量によって給与が追加して支払われるというシステムで、和夫は二郎が戦争に軍属として参加している間、冬の凍てつく海に何度も船を攻撃され投げ出される事によって心臓に更なる疾患を追っているのを知っていたのだ。
 二郎は身体さえ丈夫であれば、名古屋に行き行商人をするつもりで戦争を終えたのだが、義兄弟分の母親を引き取る事になり実質夫婦養子という形で義兄弟分の戸籍に一時的に入ったため、親戚づきあいや相続で漁師町を離れられなくなってしまっていた。そのため東京の築地に店を構え身体の負担も減り、進駐軍が買ってくれる日本土産の売り上げを故郷に送り、家族離れ離れになってはいたが生活がなりたっていたのだ。
 そんな事情を長男である和夫は何となくは察しており、自分がカツオ船に乗る事で父の負担も減り、家族孝行が出来ると考えてカツオ船に乗るという選択をしたのだった。
 そして和夫がカツオ船に乗る日がやってきた。和夫はカツオ船に乗るまでに弟妹に田畑の世話の仕方を教え込み、自分が必要な最低限の荷物を用意して、いよいよ船に乗る事が出来たのである。
 恵からは、
「兄ちゃん、ありがとう。給金渡してくれて。要る物があったら連絡するんやで、シケの日は船の真ん中におらなあかんよ。」
と涙ながらに別れを惜しんだ。
 二郎も、
「和夫すまんな。ありがとう。健康だけには気を付けて船の兄さんらに色々と教えてもらってこいよ。気を付けて。」
涙をこらえながら和夫に伝えた。
和夫は、
「何の仕事やるか分からへんけど、行ってくるわ!待っとって!」
振り返る事もなく船に乗り込んでいった。
 様々な色の紙テープを陸側と船側に渡し、乗船側と見送る側でテープが途切れるまで別れを惜しんだ。
 そしてテープも切れ、地平線が見えるような沖に出てきた。早速仕事の始まりだ。
 コック長はこのカツオ船に調理師として10年以上乗っているベテランであり、漁師を交えても長老にあたり船のトップである船長もコック長が船に乗り始めた後に入ってきて、船の運転資格を取り地道に働き船長になるまでを見てきた人物である。
「和夫!まずは飯の炊き方を教えたる。見とれ。」
船長は一升枡に米を5杯炊飯器に入れた。和夫はこんな大きい炊飯器を初めてみた。手際よく米を研いでいくコック長をみて、男らしくかっこ良いと思った。
 その時である、船が波に乗り大きく揺れた。和夫は何にもつかまっておらず、揺れと同時に食堂の机にこめかみを強くぶつけた。血が出ていた。痛みで頭がクラクラして、コック長が何か叫んでいるが聞き取れない。
 バシーン!! 
 コック長のビンタで意識がはっきりしてくる。無論痛みは、こめかみにしか感じない。
「和夫!常に何かをつかみながら話を聞け!!まだ先に行ったらこれより大きい波がくるんよってに、血拭いて続き見とけ!船の中は常に命がけやぞ!覚えとけ!」
コック長はあの揺れの中でも米をこぼしておらず、米を研いで水の測り方を教えてくれた。
「カツオが来たらいつ飯が食えるか分からんよってに、米炊く時は軟らかめに炊いとくんぞ。そうしたら時間が経っても飯が硬くならへん。一食分は人数分×0.25号が基本や。しばらくは俺の仕事を見とけ。頼む事あったら頼むよってに。何があるか場所覚えといてくれ。」
 船に乗り始めて1時間も経たないうちにケガをしてしまったが、船に乗って仕事をするというのはこういう事なんやと和夫は気合を入れるのであった。
 飯の時間になると船員が次から次に押し寄せてくる。食事のメニューは基本的に毎回カレーライス。カツオが大漁した時に船長が何本かカツオを降ろして食べても良いと許可をくれる。その時は刺身にして船員それぞれが醤油やマヨネーズや酢を使って好みの味付けをご飯にして、その上に刺身を乗せて食べるのである。

 カツオ船では常にナブラという小魚の群れを双眼鏡で何人かが見ている。ナブラが見つかったらカツオが要る証拠になる。すぐにサイレンを鳴らして一本釣り漁師に知らせる。船横から潮水を噴射してカツオに餌の小魚と間違わせて一本釣り漁師が次々に竿を上下に動かしカツオを吊り上げる。針には返しが付いていないので竿を後ろに返すだけでカツオは船に散らばる。餌まきが船の上方からイワシをタイミングよく投げ込む。本当の餌と船横からでる潮水でカツオを騙すのだ。本物のイワシなどの餌を投げ込むことによって、潮水の事も餌と感じ取り針に引っ掛かり、漁師が吊り上げるという流れだ。散らばった魚は船に作られた枠内で跳ねているが、グランド整備に使うトンボのような器具を使って船にある水槽に落としていく。カツオの群れが居なくなると海面が静かになるので、そこで一旦漁は終了。
 漁が終わると今度は水槽の水を抜いていき、水槽のふたを開けると冷凍庫の巨大版が船に備え付けられているのでそこで冷凍させる。2時間もすれば凍るので今度は冷凍庫の中をカツオが散りじりになっているのでそれを奥に順番に積んでいく-40℃の冷凍庫だ。はじめは寒いので木綿のジャンパーを着るのだが作業をしていくうちに10分もすると身体が暖まってきてジャンパーを脱いで長袖のトレーナーだけで作業ができる。こうなればゾーンに入り作業効率も一気に上がる。二人での作業なので息も段々あってくる。冷凍庫の作業は経験の浅い漁師が行う事になっている。
 和夫も人員が不足している時には冷凍庫作業する事もあった。15歳の和夫と大人の漁師とは力も体力も違う。故郷で喧嘩自慢の体力を持っている和夫も毎回冷凍庫の作業なのに汗をかいて、腕や肩などから湯気が上がっていて、作業し始めた時は疲れしか感じないが汗をかき始めてジャンパーを脱ぐとそれを見るのが楽しみだった。
 海水を抜いた水槽にはすぐにまた海水を入れる。いつ何時ナブラが発見されるか分からないからである。ナブラが発見されればその都度、一本釣り漁師は動き、餌まきは餌をまき続け、機関長や船長は船を波で流されないようにコントロールする。多い日であれば5回以上、この作業を1年間雨の日も風の日も続けるのである。


 しかし、一向に何日もナブラを見つけられない事があると船長の許可で、船で宴会が開かれる。親睦会みたいなものだ。コック長が船長の選んだカツオを何本か刺身にして、酒を飲むものは酒を、飲めない物はお茶などを飲んで歌を歌い、踊り楽しむのである。
 和夫はまだ未成年なのでお茶を出してもらい宴会に初めて参加して時は、いつもは怖い兄やんやおじやんがあんなにも笑うなんて、よっぽどこの仕事が好きなんやろうなと、楽しむ様子をみていた。
 宴会が終わると今度はコック長と片づけに入る。余った刺身は冷凍庫に入れて翌日までには食べきる。ご飯はまた追加して炊いて次の食事の時間に間に合わせる。まさに目の回る仕事量はこういう事を言うのだろうと和夫は感じるのであった。
 1週間程航海すると燃料を入れに港に寄る。初めての上陸の日だ。和夫は上陸用に紺色のワイシャツにチノパンを用意していた。靴下はいつもの軍足。靴は父からもらった革靴をはいて、髪の毛はポマードで固めたいが坊主頭からそれほど伸びていないのでなんとなく前に流しておく。
 船の兄やんに連れて行ってもらったのがフィリピンのバーだった。和夫はどこから見ても子供と分かっていたのでボーイにお酒の提供は断られたが、代わりに美味しい料理を出してくれた。船の出る時間は2時間後なので土産物屋を回った。記念に残る物は何が良いだろうと考えた和夫は切手を買う事にした。そうすれば各国の切手が集まり、どこに上陸したかが分かるのだった。
 2時間して船の燃料補給も終わり、上陸用の服をきれいに畳んで再び作業着に着替える。たった2時間の上陸だったが陸の上がこんなに快適だったとは和夫は生まれて初めて感じる感覚なのであった。常に船は揺れて、足を踏ん張っていなくてはいけないので足の筋肉痛にも船酔いにも最初の3日間は悩まされた。
 1週間もすると身体が船に順応するのか、足の筋肉痛や船酔いも無くなった。ただ上陸した時のリラックスできた感覚は忘れられなかった。
 和夫は船に乗っている時間が長くなるにつれて、身体も成長してコンプレックスだった坊主頭も髪の毛伸び、次の上陸の時に散髪に行こうと考えていた。次はどこで上陸するか分からないが燃料補給のために5日から7日で港に寄る事は分かって来たので、兄やん達に散髪はどこに行ったら良いか聞いてみた。兄さんたちは上陸の度に、ヘアワックスやポマードを付けて最高にカッコいい髪形で上陸していくのだ。
 そうすると、兄さんの一人が
「上陸して散髪すると酷い髪形にされるど。松のおっちゃんが元散髪屋やから頼んで切ってもらえ。」
 松のおっちゃんとは歳でいえば50代前半で漁師にしては細く力がなさそうな感じで、漁が始まると機関長にいつも怒鳴られていた
「まつぅ~!カラの竿上げんなや!かっつぉ引っ掛けんかい!おんどれ!」
しかし上陸の時にはデニムで上下を揃え、髪形もオールバックでサングラスをかけて上陸する。
和夫は
「あのおっちゃん散髪屋やったん?なんでカツオ船に乗っとんの?」
兄やんは
「人には色々事情があってな、松のおっちゃんは散髪屋やから船員の髪の毛全員切ってもろてるわ。お前も頼んで来いよ。」
そう言われて、松のおっちゃんに
「おっちゃん、今度髪切ってくれへん?」
松のおっちゃんは嬉しそうに和夫の髪をなでながら、
「おっちゃんが切ったる。どんなんがええ?」
和夫は財布に入っている二郎の写真を見せて
「こんな感じで七三に分けたいんよ。」
松のおじちゃんは
「この人、上官さんやん。誰?」
和夫は
「ウチの親父!大人になったらこの髪形にしたかってん!」
松のおっちゃんは大層に驚き
「上官さんの息子がカツオ船乗ってるんか!よし!おっちゃんに任せとけ!…カツオ船かぁ色んな人がおるもんや」
そうつぶやきながら上陸していった。
 次の上陸地はインドネシアだった。港町では他の船に乗る日本人と交流したり、外国語が話せる兄やんは女性をナンパしたりしていた。
 和夫は相変わらず切手を収集していた。二郎が上陸の際に使うように持たせてくれたお金はほとんど使わずに切手を2,3枚買うためだけに少しずつ使っていた。

次回は…船の乗組員の様々な人間模様と和夫の成長の過程を書いていきます。
乞うご期待を!!








この記事が参加している募集

#ふるさとを語ろう

13,675件

#仕事について話そう

110,378件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?