見出し画像

「王道」と、受け入れられる「尖ったもの」

2019年初めてのnote 投稿です。本当に今更ですが、今年もどうぞ宜しくお願い致します。
記念すべき2019年第1回目のテーマに相応しいかどうかは分かりませんが、先日ある女優さんと話していて考えたことを1つ。彼女は劇団四季やディズニーが好きという、僕とはまったく正反対の人です。その人が誘われてとある人の芝居に出ました。僕が書くくらいですので小劇場の芝居です。その作品はかなり尖っていて、表現方法も特殊。自分のお客様からは「分からなかった」と言われたし、実は演じている彼女自身もよく分かっていなかったそうです。演者が分からないのですから、お客様に伝わるわけはないですよね。
彼女は言いました。
「やっぱり王道が一番ですよね。」

小劇場の芝居がつまらない、興味が持てないと言われてしまうのは、えてしてこのような独特の方法論や世界観を持った人が多くて、それが一般の人、就中観劇に慣れていない人に非常に取っつきにくいということがあると思うのです。しかし、例えば松尾スズキさんの「大人計画」も小劇場から出てきました。松尾さんの作るものはかなりクセがあり、好き嫌いは分かれると思います。正直に言えば、僕は嫌いな方です。でも、何故嫌いかと言えば、何を表現したいのか分からないからではなく、むしろ分かりすぎるほど分かるからです。
松尾作品は非常に露悪的で、人間の嫌な面、できれば見たくない面を、ブラックジョーク的に見せます。人間の汚い部分を描く作品は古今東西枚挙に暇がないほどあります。でも、本当に嫌な気分を意地悪く見せ、後味が悪い作品はそう多くはなく、松尾作品は明らかにそれです。「分からない」のではなく、よく分かるからこその好き・嫌いです。
他方、同じ大人計画のクドカンこと宮藤官九郎は、逆に人間の情けないところ、面白いところを、他の作家とは違った独自の視点とテイストで描きます。ある意味尖っていますが、これは松尾作品とは違った意味で分かりやすく、なおかつ三谷幸喜のようなお行儀のよさはありません。なので、受け入れやすいのは三谷さんの方かも知れませんが、クドカンはハマると三谷さん以上の面白さを感じることができます。だからこそ、NHKも大河や朝ドラといった看板番組のシナリオを書かせるわけです。

この2人の作品は、明らかに王道ではありません。しかし、尖り方がより受け入れられやすかったのでメジャーになったのです。
そこで僕は考えました。分かりやすいもの、万人が受け入れやすいものを王道というなら、王道とよくあるもの、ありきたりのものとは何が違うのだろうか、と。松尾さんもクドカンも王道からは程遠いし、ましてやありきたりとは正反対のものです。ありきたりではないけど、受け入れられる。まるで王道の四季のように。その尖り方と、冒頭の彼女が出演した作品のそれとは何が違うのか。
考えましたが、まだ結論は出ていません。

僕自身はエンタメをやっているつもりです。しかし、王道のエンタメではないのは自覚しています。そうかといって、物凄く尖っているかといえばそんなことはありません。自分でも中途半端な感じがします。そこがかなりの人にスルーされてしまう所以なのかも知れないと思ったりもします。分かりにくいけど、面白い分かりにくさ、王道ではないけれど思わず受け入れてしまう尖り方ではないと思われているのでしょう。
創作というのは本当に難しいものです。王道は強いですが、逆にありきたりに陥らないようなさじ加減が難しいですし、競争相手もたくさんいます。余程抜きん出ないと選んでもらえません。かといって王道から逸れ過ぎると、今度は見向きもされなくなるか、一度か二度でお腹いっぱいに感じられてしまいます。尖れば尖るほど、ほんの一握りのコアなファンしかつかなくなります。最悪、まったくファンがつかない可能性だってあります。どの程度尖らせるか、またどの方向に尖らせるかのさじ加減もまた難しいのです。

自分の感性を信じるしかないのですが、本当にそれだけで多くの人の心に訴えるものが作れる程、(趣味ではない)創作は甘くないのです。
この1年かけて、その絶妙な尖り方、王道でもありきたりでもないけど面白いと思ってもらえるものに迫っていきたいと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?