いつだって大事にしたいのは「自分がどうしたいか」
SNS疲れの原因は、ひとえに「他人にどう思われているか」を過剰に気にしているからだと思う。
すくなくとも、私の場合はそうだ。
年に数年訪れるSNS疲れに見舞われ、風邪で調子が悪かったのもありすこしの間投稿や閲覧の頻度を減らしていた。
投稿に至っては、したくてもできなかったというのが正しい。
世の中は何年も前から情報の洪水だ。
現代人が一日に得る情報量は、江戸時代の人の一生分らしい。
パソコンやデジタル機器は容量が増えても、人間のキャパシティはそんなに進歩していない。
それどころか、ヤフーニュースを数回スクロールするだけで気分が悪くなる、情報量に酔うタイプの人間も多い。
(ヤフーニュースは煽り文も正直ひどいので開かなくなった)
特にSNSは、誰がどんな意図で言っているのか、なぜそんな態度を取るのか分かりにくい。
そんなのがいくつも連なってくるから、余計にどう思われているか過敏になってしまう。
文章だけのコミュニケーションでは、それらがときに誤解や摩擦を生む。
また、対面でないコミニュケーションの綻びはなぜか着火が早い。
私は年初めに無礼を働いているし、先日は妹が「友だちからLINEの返信がないのにX (どうしても「エーックス!」と言いたくなる)の更新はしている!」とものすごい剣幕で相談してきた。
こういうとき、つい相手を疑うか、自分に非があったかもしれないと過度に責めるかの二極化になりやすい。
しかしどんな人もそれぞれ事情があるし、いつでも100%答えられない。
経験を生かし、妹の友人に何かあったのかさりげなく聞いてみるようアドバイスすると、家族間のトラブルで返信できなかったという。
ただ、ひとつ注意したいのは傷つきやすいのと、傷ついた! とギャーギャーわめき立てるのは全然違うということ。
noteでは後者のような品のない人はあまり見かけない。
むしろ、「言いたいことも言えないこんな世の中」に取り残されてひとり膝を抱えているか、せいぜいノートに愚痴を書く程度の人が多いのではないだろうか。
そうなると、閲覧はもちろんのこと、今度は投稿・発信ができなくなる。
慎重なのは、前述の通り摩擦レスとほど遠いネット社会ではいいことだろう。
ただそれが行き過ぎて、「こんなことを書いたらどう思われるだろう」といちいち立ち止まって、せっかく語りたい話題があるのに自ら歯止めをかけてしまうのは、自由な街のnoteではなんだかおかしい。
冷静に考えると「そんなに悪いほうには思われない」「そもそも絶対数から言って読まれない」ことなど分かっているのに、誰よりも自分自身が厳しい検問官になってしまうのだ。
自意識過剰なのか?
そんな短絡的な言葉で片付けられるのはご免被る。
これまでの人生であれやこれやを「考えすぎ」「自意識過剰」と言われてきた人は、真に受けなくていい。
想像力が豊かすぎる故に悪い方向にまで及び、ブレーキをかけてしまうだけのことだ。
考え方のくせなだけであって、端的な言葉で一蹴する人たちはそれを知らないだけなのだ。
何かの本で「遠慮はするな、配慮はしろ」と書いてあった。
失礼なことや、故意に誰かを傷つけるようなことさえ書かなければ、好きなことを書いていい。
それでも明らかに自分が間違えてしまったときは、誠意をもって謝るしかない。
本当はいつだって、「自分がどうしたいか」を大事にしたい。
常日頃からできているのではなく、繰り返し繰り返し、疲弊するたびに言い聞かせている。
情報の波に揉まれていると、だんだん自分の意思が不透明になっていく。誰かの言葉や意図の分からない態度にばかり支配されていく。
そんなのはあまりにも、もったいない。
疲れたときは、這いつくばってハートマークを押しに行かなくていい。
閲覧すらしなくていい。
SNSだからこそ出会える人もいるけれど、もっと大事なものは目の前にいくらでもあるはずだ。
気が向いたら、またぷかぷかと好きなほうへ泳げばいい。
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