ブックガイド(88)赤狩りが産んだ傑作「地球最後の男」「盗まれた街」


核戦争の恐怖が産んだ「赤狩り」

 赤狩りとは、アメリカ合衆国と西側諸国で行われた共産党員とそのシンパに行われた公職追放措置のこと。
 1949年の中国共産党政権誕生、ベルリン封鎖、1950年の朝鮮戦争の勃発による冷戦激化が時代背景。特にアメリカにおける上院議員マッカーシーと非米活動委員会によるそれはマッカーシズムと呼ばれた。ハリウッドなどエンタメ業界でも、チャールズ・チャップリン、ダルトン・トランボなどが追放された。この終息は1954年まで待たねばならなかった。

時代の不安が産んだ傑作SF

 この時期に書かれた二編のSFが、後続する作品群に大きな影響を与えている。
 一つは「地球最後の男」(1954年リチャード・マシスン)である。
 人類が全員吸血鬼になってしまった地球。最後の一人となった主人公は要塞のような家に立てこもり、毎夜襲い来る吸血鬼達と戦い、彼らが眠る昼間には彼らを殺して回っている。
 後のゾンビ物の源流である。ラストでは、彼ら吸血鬼にとって、眠っている間に殺しに来る自分こそが怪物であったと気づく。同調圧力に抗っていた自分が「怪物」となっていたという優れた相対化に舌を巻く。
 もう一編が「盗まれた街」(1955年ジャック・フィニイ)
 街の住人、隣人が知らないうちに一人また一人と宇宙人(インベーダー)に入れ替わる話。赤狩りの恐怖が背景にある。
 表向き、インベーダーや吸血鬼は米社会に潜入したコミュニストの暗喩である。同時に、「みんなと同じになれよ」という同調圧力は赤狩りをする体制側の恐怖の暗喩にもなっている。この両面性が優れた相対化になってる。これが声高に「同調圧力は怖い」と叫んでいたら、ここまでの説得力は出なかっただろう。「この同調圧力って、怖いなあ」と読者に気づかせているからこそ響くのだ。

時代の不安を作品化するこつ

 判りやすい作品化はではなく、ひねることによって読者に「気づく」体験を与える。直接解かれるより、「そういうことなのか」と気づく方がインパクトが強い。小説とは「説得」するのではなく「気づかせる」ものなのだ。
 どちらの作品も繰り返し映像化されている。
 マシスンの方は「地球最後の男」(1964年)、「地球最後の男 オメガマン」(1971年)、「アイ・アム・レジェンド」(2007年)。
 フィニイの方が、「ボディ・スナッチャー\恐怖の街」(1956年)、「SFボディ・スナッチャー」(1978年)、「ボディ・スナッチャーズ」(1993年)、「インベージョン」(2007年)
 この繰り返される映像化こそ傑作の証である。

後継の作品群も傑作揃い
 マシスンの吸血鬼をゾンビに変えたのがジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968年)で、ゾンビ映画の元祖となった。
 小室孝太郎のマンガ「ワースト」(1970年)は、謎の雨に打たれた人々がワーストマンという怪物に代わってしまうという物語で、生き延びた人々の未来を描く長編三部作。
 フィニイのインベーダーを吸血鬼に変えたのがスティーブン・キングの「呪われた街」(1975年)で、これも三回映像化されている。小野不由美さんの傑作長編「屍鬼」はこの作品へのオマージュになっている。
 いずれの後継作品も、過去の傑作に作者独自の新機軸を盛り込むことで新たな傑作を生み出している。小説の書き手として、学ぶ点が多い。
「アイ・アム・レジェンド」
「盗まれた街」
「ワースト」
「呪われた街」
「屍鬼」

赤狩りに関しては、山本おさむ「赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD」という表現の自由を侵す権力と闘う映画人たちを描いた大傑作マンガがある。
「赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD」

(追記)
 自分の作品「不死の宴 第二部北米編」は1956年の北米を舞台にしている。
 赤狩り終焉直後の大統領選挙をバックグラウンドにしていて、ヴァンパイアが出てくる小説でもある。そこで、リチャード・マシスンを狂言回しに登場させている。舞台となる街・アイルズベリーはラブクラフト作品から、リトルセイラムという地名とマーステン館という舞台はキングの「呪われた街」へのオマージュとした。
 興味を持たれた方は、是非お読みください。
「不死の宴 第二部 北米編」(栗林元)


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