【怪奇小説】オドイト【第一話④】

【前回】第一話③ https://note.com/haizumisan/n/na41ee0b632c5

 洗面所に戻ると、もうほとんど動かなくなったそれは、それでも僅かに身じろぎをしていて、摺鉢状の洗面器から這い出ようとしているかのように、力なく蠢いていた。
 僕は、オドイトにオイルを浴びせた。
 僕がライターのホイールに指をかけた瞬間、オドイトと目が合った、ような気がした。もちろん、気のせいに決まっている。奴らに、物を見るなんて高等なことができるはずがない。

 僕は彼女の置き手紙に火を点けて、洗面器に落とした。

 燃える紙幣からオドイトの身体に火がうつると、その皮膚は赤く爛れた後、黒く焦げながら萎んでいった。水分が蒸発していく音が、断末魔の声ようにも聞こえる。

 水道の蛇口をいっぱいに捻って、小さな燃えかすになったオドイトの死体を排水口に流した。そして、洗浄液を洗面器に撒いて、また水を流した。

 僕の中から排泄されたそれは、燃えて流れて、もう跡形もなくなった。

 二日酔いの吐き気で競り上がったように感じでいた胃が大人しくなると、気分も落ち着いてきた。口の中の不快感も、すっかり消えている。

 オドイトが実のところ何なのかなんて、どうだっていいことだ。吐き出したものの内訳なんて、知りたくもない。
 多くの人が僕と同じように考えているのだろう。それは至極真っ当なことだ。
 経験した痛みを慣れとして消化していくことで、楽に生きられるようになる。僕の世界から去ったものは、僕に不要なものだったのだということに他ならないのだから。

 洗面所を後にして、冷蔵庫から水を出してコップに注いだ。指先に伝う冷たさが心地良い。

 コップの中身を一息に飲み干すと、新鮮な水分が身体中に染み渡って、細胞をリフレッシュしてくれる感じがした。

 人の細胞は1カ月でおおよそ刷新されるという。つまり、僕らの身体は1カ月前のそれとは全く別物だということだ。

 細胞の代謝が身体の生まれ変わりを促すように、オドイトが感情面の老廃物を排出し、「精神の生まれ変わり」促す。

 人間は、生命の進化から、存在の進化に至ったのだ。人の本質はもう身体でなくなった。精神の代謝によって、人は新たな地平に降り立ったのだ。

 くっくっ、と喉の奥から笑いが漏れ出た。これは、前回オドイトを吐き出したときにも起こった。

 吐き出した直後の倦怠感が和らいてくると、今度は身体が軽くなって皮膚の裏側にピリピリと心地良い刺激が走る。そして、オドイトが通った食道のあたりがムズムズして、何とも言えない快感が競り上がってくる。

 僕はもう、何にも縛られない。

 僕は込み上げる笑いを抑えることなく、自分という存在の自由を謳歌した。


                            第一話 了
                            第二話に続く

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