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「普通に」人間


これは、とある陽気なおじさんの言葉にハッとしたお話。

それはこの冬に地元の友人の紹介で、静岡にあるミカン農家の家に収穫のお手伝いをしにいった時のことだ。その子がミャンマーに言った時にそのおじさんと現地で出会い、友達になり今に至るわけだが、40歳以上も離れた親戚以外のおじさんと友達みたいな関係になるなんて、とても不思議だなぁと感じる。しかしそんな関係になれたのは、偏におじさんの性格故だ。いつの間にそのおじさんの魅力に引き込まれていたのかも知れない。


そのおじさんは普段は基本ふざけてばかりいるし、口を開けば親父ギャグばかりを言っている絵にかいたようなおじさんだ。そしてお酒が大好きで、昼間でも関係なく呑みたがるし、信じられないくらい吞む。どんな体しているんだと心配になるのだが、そのおじさんが面白いのは、酔えば酔う程真面目な話ばかりになるところだ。

その吞み会は家で行われ、近所のおじさんたちも参加し、ヨソモノの大学生ながら毎度その輪の中に混ぜてもらう。酒が入るにつれて今の生活、政権、戦争、資本主義など様々なテーマなどに対し不満や怒りなどを並べて基本おじさん同士で語り合っているのを聞いているのだが、時々私たちを置き去りにしないように問いを投げかけてくれて、私たちの言葉に耳を傾けてくれる。そういう細かい優しさに私は心動かされる、素敵なおじさんなのだ。


そんな中でも、不意に突いてくるシンプルな質問に、びっくりするくらい心を震わされる。今回話したいのはそのことについてだ。

それは、彼女や奥さんなどの話をしていた時の流れで、自分が昔、合コンに行った話をしていた時だ。合コンといっても、どちらかと言えば「男女の友達が呑む時にお互いに一人友達を連れてくる流れで、たまたま自分が呼ばれた吞み会」という方が近いかもしれない。それを合コンというのか。ま、いい。その時は別になにが起こるわけでもなく、終電で解散したと伝えると、そのおじさんはとても驚いてた。そして「なんでグイグイ行かないんだよ!」と私に言った。

今時こんな話をしたらセクハラだのモラルだの色々言われそうだが、おじさんが若かった頃は男女という関係が今とは少し違ったようで、もっとはっきりと境界線が引かれていたみたいだった。なのでお互いがもって意識し合っていて、男女がそういう風に吞むときはグイグイいくのが当たり前だったみたいだ。

それは昔イケイケだったというおじさんだけの話かも知れないが、火照ってなさすぎではないか?みたいなことを言いたかったのだと思う。ま、それはあながち間違っていないかもしれない。昔に比べて今は男女の境界がどんどん曖昧になっているような気がするし、人からいかにも男として・女としてなど性別で扱われることが嫌だと感じる、というのが一般化しつつあるとも思う。草食系だの、絶食系だの、そういうスラングのような言葉をよく聞くが、この論争は意外と根が深い、のではないか。


しかしその時はそんなこと考えている暇はなく、とっさに私はこう弁解した。


「ただ普通に呑んだだけですよ」



すると、そのおじさんは私に言った。


「普通にってなんだ?」




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戸惑った。まさかそこを突かれるとは思ってなかった。結局ゴモゴモしていい返事をすることはできなかった。思い返すと、今でもちょっぴり悔しい。


確かに「普通」ってなんだろう、とは素直に思う、一生答えにたどり着けない問いかもしれない。ただそれよりも分からなかったのが、なぜ自分があそこで「普通に」と使ったのか、ということだ。合コンで誰とも何もなく帰ることを、なぜ「普通」と表現したのだろう。それって普通なのか?


「普通に」って何なんだろう。考えれば考えるほどいやらしい言葉に思えてくる。

自分自身が間違っていないことを主張するために「普通に」って使ったのだろうか。別に「自分がそうしたかったから」でいいじゃないか。それとも、やましい気持ちがなかったことをアピールしたかったのだろうか。だとしたら「友達として」とか「健全に」とかでいいじゃないか。それを「普通に」って表現することの方がやましい気がしてきた。



それ以降、私は「普通に」の呪いにかかっている。人に何かを説明するとき、自分を表現するとき、はたまた人に何かをお願いするとき。私は知らぬ間に、しょっちゅう「普通に」を使っていることに気がついた。その度にあのおじさんの事を思い出す。なんで私はこんなにも自分自身が「普通」であることを求めているのだろうか。

ま、大体その理由は想像はつく。結局自分に自信がないだけなのかもしれない。

自信がない時に後ろ盾になってくれるものとして、みんなの共通認識である「普通」を用いることは、特別おかしなことでもない。ただ、それは最終手段でもある。何かにつけて「普通に」を多用することは、情けないとも感じている。


そして案外、「普通に」人間は周りにもたくさんいる。将来についてどうするのか話していたときに大学生の友人が「普通に面接受けて就職するよ」と言っていた。同じインターンをしている後輩が、学生団体の主催やまち活性化プロジェクトのリーダーなど様々な活動をしている中で、自分が大事にしている軸がわからなくなったことを先輩に相談した時に「普通の女子大生じゃん」と言われた、と言っていた。


大学生は就職するのが「普通」なのか?色々な活動をしていく中で自分の軸を見失うことが「普通」なのか?



普通ってなぞだ。誰もそれをハッキリと説明できないくせに、それを基準に物事を語る。それは普通、それは普通じゃない、そうやって人に線を引かれたり、自分で引いていることもある。普通であることが正解のようにされている世界にいつの間にか慣れてしまっている自分もいる。「普通」であることが前提の社会、そうとも表現できるのだろうか。



ところで、「普通」ってどんなことを指すんだろう。挨拶されたらちゃんと返す、犯罪を犯さない、ちゃんとトイレで用を足せる、まっすぐ歩ける、みんなの前ではうるさくしない、学校に毎日通う、、、とかだろうか。

他にもあるだろうが、どれもこれもすべて親から教えてもらって身につけたことだと書いていて気がついた。子供は初めは挨拶だって返せないし、一人でトイレをすることも、何ならまっすぐ歩くことすらできない。それらができることは、私たちが生まれた時、育った時は「特別」なことだったのではないだろうか。

それが歳を重ねるにつれ、誰かの手を借りることなくできるようになり、できて当然になっていく。人間が作ったルール・モラルの中からみ出さないように教育されたことが「普通」というのなら、普通の始まりは「特別」ではないだろうか。

人は忘れてしまう生き物であり、忘却に生かされたり、殺されたりするものだ。いいとも悪いとも思わない、そういうものだからだ。ただ、幸せな事や特別な事が、普通になり、当たり前になってしまうことだけは忘れたくない、とは思う。赤ちゃんは生まれた時に息をしていることですら特別な事だったのだ。普通って、とても尊いことではないだろうか。



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そんな普通の事に感謝できるようになったら、もっと自分に自信がつくのだろうか、わからないが、何かから隠すように「普通に」を使うのはなくなりそうな気がする。普通って自分が思っているよりも、とてもすごいことなのだから。そして改めて思う。



「普通にってなんだ?」




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