繊細だから私たちは永遠に傷付き合える。

 貧乏暇なしとはよく言ったものだ。そんな状態が続くと労働と酒飲む以外の外出をしたくない。台本作業も溜り始めている。箱書きしたり、アイディアを捻りだしたりしている。力を抜いて書こうと思うと力が入る。力が入ると疲れる。疲れると嫌になって酒が飲みたくなる。そんな日々にしか書けない物があるとしたら、それは酷く鈍感な言葉だろう。鈍感さを愛しているのだが・・・。

 労働と酒以外で外出したくないという気持ちは半分ギャグだが半分本気だ。そもそも私は人好きと人嫌いが複雑に混ざり合っているタチなので、酒と言う快楽物質(もしくは鈍感麻薬)が無いと、その複雑さと折り合いを付けなくてはならず、これがまた疲れたり、果ては無気力を生み出すのだ。

 どうも、この世は繊細な人は優しいという間違えたイメージが蔓延しているらしい。繊細はただの繊細なだけだ。性格のひん曲がった繊細も在る。
もっと言えばインターネットをやっている時点でその人は優しくない。優しさとは慢心の別名だ。手頃なSNSで常日頃、自己の言葉を垂れ流している奴と、世界をセルフ遮断した自尊心が生み出す純正の慢心とじゃあ格が違う。

 傷つきやすいのはその人の性質だ。良いも悪いもない。私は喉が細い。だからお水でも一気飲みが出来ない。これと同じだ。良いも悪いもない。

 労働と酒以外で外出したくないという気持ちは繊細ではなく惰性だ。大体の人間は惰性だ。面倒くさいとかったるいから出来ている。

 優しい言葉が増えた。優しい物語はもっと増えた。暖かい眼差しと形容される感想が増えて、感動の涙で溺れそうだ。

 誰かを傷付けろとは言わない。でも誰かを私たちはいつでも傷付けてしまう。でも優しい言葉と優しい物語は自分の加害性を隠す(もしくは乗り越えられると信じている)。だから優しさは慢心なのだ。

 時々、私は一人で部屋にいる時、言っちゃいけない言葉を呟いてみる。言っちゃいけない言葉と誰かを傷付けてしまう言葉を掛け合わせて台詞にもならないような掛け合いをメモする事もある。

 酒に酔うと頭の中で言っちゃいけない言葉があふれかえる。それが喉にせり上がって口に出るのを阻止する為に酒を流し込む。そうしてついつい呑み過ぎる。

 だから、せめて台本だけでも台本じゃなくて日記でもスマホのメモでもツイートの下書きでも。自由に言葉を綴ろう。自由にどんなグロテスクな想像でも。優しくない、誰かを傷付けるような言葉でも。それは自分だけのものだ。他の誰かにとってみたらゴミみたいなものだろう。

 そうして吐き出したものを見つめる事で私たちは冷静さと苛烈さを身に宿す。

 インターネットの誹謗中傷がダサいのはゴミを宝物の様に漂流しているからなのだ。明らかにゴミにしか見えないのに、まるで金言のように威張っている。その姿勢にはダサさと不愉快さしかない。優しくならなくてもいい。
せめてダサくはなりたくないものだ。余談終わり。

 傷付けないように振舞うのが優しさじゃない。その傷を癒すせるのは自分だけだと思うのが優しさだ。

 自分が繊細だと思い込んでるならそれは大きな間違いだ。こんな世界。繊細だったら生きていけない。繊細という言葉でまとめているものに分け入って色んな名前を付けてみる。そうすれば自分の輪郭がハッキリする。まずはそこからだ。

 その中に「金欠の私に酒を奢ってやろう」という気持ちがあったならば、大事にして欲しい。それは、この世界で唯一慢心さから逃れた本当の優しさなのだから。

 台本買って下さい!!皆さんの穏やかさを祈って。


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