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④イタロ・カルヴィーノ『くもの巣の小道』

カルヴィーノ!カルヴィーノ!
おそらく日本で一番人気のある現代イタリア作家だと思います。去年の2023年はカルヴィーノの生誕100周年で一部界隈ではにぎわっていたようですね。
わたしは短編はいくつか原文で読んだことがあり、難しい単語や表現は使わないけど描写がとことん上手いという「魔術師」の名に恥じない作家だなと感じました。
イタリア語文法一周したらとりあえず読んどけ感ありますね。
今回はそんなカルヴィーノの処女作であり長編の『くもの巣の小道』を読みました(日本語訳で)。

ネオレアリズモの代表作

よくいわれるのが『くもの巣の小道』はネオレアリズモ文学における代表作であるということ。ナチスドイツとファシストの抑圧と戦ったパルチザンの様子を忠実に描いたものであるということ。
後述する「子供の視点」という要素も特に映画論にてネオレアリズモ的とされる特徴なのですが(岡田温司『ネオレアリズモ』参照)、そういう点も踏まえると確かに典型的なものに見えてきます。

しかし、カルヴィーノはのちの作品でネオレアリズモから脱却していったといわれているのに対して本人は「自分の書くものは変わっていない」と語っているそうです(教授の話によると)。

現実の出来事に忠実であるように見えるのは作家の腕であって、例えば三島由紀夫『金閣寺』なんかも実際の放火の犯人をそのまま映したかのような緻密な心理描写がなされているわけで、現実と重なるからと言って必ずしもリアリズムだとするのは早計なのかなと思ったり思わなかったりしました。

でもでも、作中の敵や味方の死に直面したときの淡白なような深い傷を隠しているような曖昧な態度というのは経験してないとわからないのかなーと感じました。

途中でキムという人物の独白が入るのですが、人々は何のために戦っているのか、自分が殺そうとしている相手と自分たちでは何が違うのか、戦って何になるのかという思索は、昨今のウクライナやパレスチナのような情勢をみていると触れる価値が非常に大きいように思われました。
このキムという人物は実在のカルヴィーノの友人をモデルにしているようです。

子供の視点

この作品の主人公はピンという少年で、物語自体も子供時代の冒険気分のような語りで描かれます。

文章としてすごいなと感じるのはその出だしで、いきなり街の断片的な様子の描写があり、誰が誰だという紹介も大してないまま台詞が飛び交います。

最初の数十ページくらいは世界観がよくわからないまま、酒場にいたと思ったら外に出ていて、気づいたら草むらにいる。大人たちが話している内容の文脈もよく理解できない。そのような状況に読者は立たされます。

しかしよく考えてみるとそれは自分たちがかつて世界を見ていたあの感覚であり、歩けば歩くほど新しい世界がどんどん開けていき、テレビや大人たちの会話をよくわからないまま聞いて言葉や知識を蓄えていく。大人の世界にあこがれを抱いて背伸びをしつつ戸を叩いているようなあの感覚を文章を通して追体験させる、そのような描写になっているのが本当にすごいです。(もちろんそれを日本語で表現できる訳者の方もすごいです)

しかし読者である私たちが子供になりきれるのは最初の数十ページくらいで、その後は世界観を理解し始めます。一方で子供のピンはずっと子供です。物語の後半になって熾烈な戦いに遭遇するようになったり、裏切りや政治の話題がでてくると、ピンの受け取り方と私たちの読者の察するところにギャップが生まれてしまう。ああ、この人物は殺されるのだな、それをピンはわかっていないのだな、という感じに。

物語を読み終え、「大人の世界」の方に立ってしまった自分を顧みて、すこし、寂しくなりました。

「蜘蛛が地中に巣を掘っていて、そこにP38を隠してあるんだ!」

そう言われて僕はそれを信じてあげられるか、唯一それを信じた大人は物語中でどうなってしまったか…

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