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私の祖母のこと
こんにちは。ガーデンプランナーのhacoです。先日祖母が天国へ旅立ちました。享年94歳の大往生で、とてもあたたかい式になりました。今日はそんな祖母のお話です。
7人家族から
私は、生まれた時から祖父母と一緒に暮らしていました。
弟が2人できてからは、父母と合わせて7人家族。
実家は事業をやっていた関係で、祖父母も父母も仕事をしているのが普通の環境で育ったので、女性だから家で家庭を守る。という概念は元々ありませんでした。
女性も社会の中で働く。
それを幼い頃から見せてもらっていたのです。
その後、私が大学進学で鹿児島を離れ、また鹿児島に戻ってから私が今の家を建てるまで、7年間、祖母と同じ屋根の下で暮らすことになりました。
父母と祖母と私と息子。
私の息子にとっては『おばあちゃん』というと曽祖母にあたる私の祖母のことを指しました。
祖母は歌人
祖母は、普通の縁側でニコニコしている「絵に描いたようなおばあちゃん」ではなくて、とても寡黙な人でした。
いつも本を読んだり文字を書いたり、元気な頃は油絵を独学で描いたり、服を作ったりと、寡黙に過ごしていた印象があります。
その中でも祖母が一途に続けてきたのが、日記を書くことと、短歌を読むことでした。
これは、ペンが握れる晩年までずーっと続きました。自費出版で歌集を2冊出しています。
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「運河の会」という短歌の会へ長年自分の作品を送り、また、毎月「運河の会」から歌集が送られてきていました。
祖母はその本が届くのをとても楽しみにしていましたし、そこでご縁があった方達と、年賀状や季節の品を送り合ったりしていました。
短歌には、その時に感じたことが詠まれているのですが、うちの息子とのやりとりを歌ったものが、葬儀の会場にも飾られていましたよ。
かけわすれし 胸のボタンを掛けられて
曾孫は吾を 花見に誘う
ー浜畑松江
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祖母は厳しい人
祖母は、寡黙な人と書きましたが、決して「穏やかな人」ではありませんでした。腹の中にとても強い厳しさを抱えていたように感じます。
それは、早くに母親を亡くしたこと。もっと勉強したいと思ったのに家の事情で女学校に行けず、地元を離れ大阪に就職し洋裁の仕事をし、言われるがままにまた故郷に戻り祖父と17歳で結婚したこと。
その祖父が始めた事業を手伝いつつ貧乏しながら子供3人育てたこと。
事業が軌道に乗り始めたと気には、多い時で約120名の従業員のおかみさんをしなければならずそれはそれで苦労をしたようです。
祖父の元へ嫁いだ時にはもう短歌を始めていたようで、その当時の歌からずっと残されています。
その歌、その時の思いはまた機会があったらご紹介しますね。
葬儀の時には、当時の従業員の方達も来られていましたが、皆、口を揃えて「厳しい人だった」と言います。
私にも、決して優しいだけのおばあちゃんではありませんでした。
一人でいる時にはいつも物憂げな表情で、とても幸せだとか嬉しいとか楽しいとか、そういった感情を見ることは少なかった様に感じます。
かといって、別に友人がいなかったわけでもなく、一人暮らしで寂しい思いをしたわけでもありません。
ただ、祖母はもしかしたら、自分のさまざまに起こる感情を機微に理解してくれる誰か。がいないことをどこかで寂しく感じていたのかもしれません。
旅立ちは虹の橋を渡って
祖母の葬儀の日は、前の日から雨の予報でした。
しかし当日は蒸し暑かったもののとてもよく晴れ、そして、火葬場で荼毘に伏されるその瞬間に、バケツをひっくり返したかのような雨が降ります。
そして、お骨が焼きあがるその少し前に、海に虹がかかったのです。
出来すぎた話の様でしょうが、これが祖母が天国に渡った日の出来事です。
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孫として
私は、祖母が亡くなったことに多少の寂しさは感じますが、後悔はありません。
一緒に暮らした期間が長かった中で、たくさんの祖母のワガママも聞いてきました。運転免許を返納してからは特に、自分の足のように私を使うものだからもう大変。
もうどうしようもないワガママに私が愛想を尽かすと、負けずにとても子供じみた意地悪を言い応戦するのです。
しかし、結局は祖母にとって私はいつまでも10歳ほどの子供にしか見えていないのだと、いつまで経っても、幾つになっても、孫は孫なんだな。と。いつしか諦めの境地になりました。
だから、呆れるほどのワガママに付き合ってきた。
私は孫としてやりきった(笑)そう言い切れるのです。
ひ孫の息子との最後の面会
最後の半年は、老人ホームで過ごしました。
亡くなる2週間ほど前に祖母は私の母にこういったそうです。
「○○ (私の息子)に会いたい。会って抱きしめいたい。」と。
コロナ禍で面会はできないはずなのに、どういった裏技を使ったのか、それからすぐに、息子は祖母との面会を果たします。
そして、偶然にも、ひょんな場所で私も祖母と面会が叶うのです。亡くなる1週間前のことでした。
元気でまだ私たちがわかるうちに会えたことは、幸いでした。
あたたかな式でした
そんな息子が葬儀の後に私に言いました。
「僕も、おばあちゃんのようなお葬式で見送ってもらいたい。」と。
コロナ禍では考えられないほどたくさんの方にお見送りに会いにきてもらいました。
棺には溢れそうなほどの花と、祖母がずーっと肌身離さなかったノートと鉛筆。「運河の会」の冊子。祖父との写真と最後に詠み、祖母の字で書かれた短歌を持たせました。
それらを全て見ていた息子が、そう言うのですから、とてもあたたかな式でした。
ちゃんとお見送りができて、本当によかった。
どうぞ天国でも、存分に自分の世界を楽しんでください。そのうち皆んな参ります。
今日は、祖母のことを書きました。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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